週刊俳句・第213号を読む
バナナジュースを飲みながら
小川楓子
週刊俳句時評第32回
「それは本当にあなたの言葉なんですか」を受けて
先日、半年振りに下北沢でNさんに会った。少し遅れて着いたわたしを、改札の柱に寄りかかって翻訳の作業をしながら待っていてくれたようだ。普段と変わらず快活なNさんに、「震災は創作活動に影響を与えていますか?」といきなり聞いてみた。Nさんは、「最近あまり集中できない感じがする。能率が上がらないし、落ち込んでいるのかも。」と答えた。Nさんは、小説、翻訳、音楽など多方面に渡って活躍し、そんな多忙な日々を、いつもクールにこなしているように見受けられる。そんなNさんでさえ、この度の震災に際して影響を受けていることに、わたしは少し驚いた。
焼き魚定食でお腹を満たし、古着屋さんを何軒かのぞく。わたしは、生まれて初めて下北沢に来たものだから見るものすべてがめずらしい。昭和の香りのするワンピースや食器棚の傍に立つと、自分が生まれていない時代のものさえも懐かしく思えてくる。最近、懐かしい人や物の傍に居たい気分になることが多いのは、震災の影響だろうか。歩きつかれて、立ち寄ったカフェで、Nさんはコーヒー、わたしはバナナジュースを注文した。メニューにバナナジュースがあるとつい、朝バナナを食べてきたのに、なぜか注文してしまから不思議だ。
わたしは再び、震災に係わる質問を投げかけてみた。「今回の震災は作品に影響を与えていますか?」と。Nさんは、東北出身である。和合亮一さんの「詩の礫」等ツイッターにおける、震災関連の動向にも詳しい。「震災を機に物の見方も詩のスタイルも変わった」という和合さんの発言が、印象的であったために、わたしはNさんからも「影響を与えている。」という答えが返ってくるものと思っていた。
Nさんは、少し怒ったような口調で噛み締めるように答えた。
「二十歳以上の作家で、この震災により作品に影響を受けたとするならば、それはその人の作家としての覚悟が足りなかったのだろう。僕は、かつて家族と死別して以来、どんなことがあろうとも、揺らぐことのない作品を作ろうと意識してきた。」
Nさんは、未熟なわたしに作家としての覚悟を伝えながら、半ば自らを鼓舞するようでもあった。どんなことが起こったとしても、それに耐えうる作品をわたしは作って来ただろうか。否、これから作ってゆくことができるだろうか。震災後のどことなく人恋しく、懐かしいものに惹かれる気分のなかで作句していた私は、頭をがつんと殴られたようなショックにしばし呆然とした。五十嵐の文中にある森村泰昌の発言、「それは本当にあなたの言葉なんですか。」という問いを正に、この時突きつけられたような気がした。
森村の「芸術は人を勇気づけるようなものじゃない」という発言も印象的だ。たしかに、コンテンポラリーダンスや現代アートといったものは、時として観ている者に苛立ちを与えたり、不安がらせたりする。心のどこかに引っ掛かることで鑑賞者に印象付けるためには、手段を選ばないゆえ「現代」と名の付いたものからは、どこか尖った決意のようなものを感じる。現代の俳句においては、どうだろう。鑑賞者の意識に深く食い込むために、ときには常識を破り、手段を選ばずに挑んでゆくことができるだろうか。芸術で人を救うことはできない。それをどこかでわかっていながら、芸術は人を救い、勇気づけることができるという希望を抱くゆえに、わたしは俳句を作っているような気がする。俳句も他の「現代」と名の付く芸術と同様の道を模索するのか、それとも独自の道へ辿りつくのか。本当のわたしの言葉とは何かを考えたときに、この問いと対峙してゆかなくてはならない。そんな事を考えながら、すっかり日が長くなった夕暮れのカフェでバナナジュースを飲み干していた。
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2011年5月29日日曜日
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