俳句とトポロジー
小津夜景
はじめて妖精のような人と出会った日、私はいきなり俳句の話をした。この人にはなにを話しても大丈夫だ、と出会った瞬間感じてしまったせいだと思う。
あの日、私たちは昼前のひっそりした鰻屋へ入り、鰻重と肝焼きとビールを注文した。そして鰻重が運ばれてくるまでの間、肝焼きでビールを飲みながら、ガムランの青銅鼓のふたを外したみたいな大きな鉢に、まるで鯉、といった風体の金魚がぼんやり浮かんでいるのを眺めていた。
「朱くて、長くて、太くて」
妖精のような人が口をひらいた。
「にんじんみたいな金魚ですね」
なんという大胆な直喩。思わず私は妖精のような人の顔を正視した。その人はたいへんまじめな表情で鉢をのぞいている。きらきらと、ケレンミのない瞳が眼鏡の奥から金魚を見つめやまない。ううむ。ここはまっすぐに返答しよう。私はそう思ったものの、いったいこの場合における直球な返答とは如何なるものであろうか。それで考えなしのまま、
「そうだね。そういえば俳句に『人参を並べておけばわかるなり』っていうのがあるよ。鴇田智哉って人の句なんだけど。私、この句が好きなの。かわいいから」
とふだんどおりの調子で喋ってしまった。
妖精のような人は目をぱちぱちさせた。どう反応すればよいかわからず困惑したらしい。かわいい、というのは私の口癖である。たまに見る、なんでもかわいいで片づける、かわいいしか感想を言わない女というのはこの私のことだ。
すかさず私は微笑みでその場をごまかした。そしてどう言葉を継ぐべきか思案した。そのまま一、二分思案していると、ちょうど鰻重が運ばれてきた。お陰で私たちの会話はごく自然に、これまでの人生における鰻重体験へと流れていった。
食べ終わり、残りのお茶で寛いでいたとき、妖精のような人がふと改まったようにこちらを向いた。そうして少し思い切ったようすで、
「さっきの俳句、もしかして社会派レアリスムですか?」
と言った。
今度は私が目をぱちぱちさせる番だった。おののく私に気づいた妖精のような人は遠慮がちに、あの、私、その句を聞いたとき、むかしギュスターヴ・クールベが青黴チーズの絵を描いたせいで共産主義者のレッテルを貼られた話を思い出したんです、と自分の想像の出所を説明した。
うーん。いままで耳にした中で、いちばん説得力のある感想かもしれない。つまりこの句には川柳の素質があったのだ。たしかにその線で眺めなおすと、わかるなり、の断定が身を切るようなマニフェストに思われてくる。
ものというのは、並べ方によって見え方が変わる。
もう少しきちんと言えば、現象を一から並べてみようとする態度こそが、新しい文脈をつくりだすのだ。
俳句とはなにかを問う時、多くの俳人が業火に焼かれるかのように歴史を遡行しだす。だが自己規定が差異においてしかなし得ないものである以上、他ジャンルとの関係をトポロジカルに眺めることこそ本当は欠かせない。
もしかすると、俳人が歴史を遡行するのは自分語りが大好きだからであって、それゆえ俳句の自己同一性を揺るがしてみる作業には興味が薄いのかもしれない。ただあの日の私は鰻屋を出たあとも、妖精のような人と肩をならべて歩きながら、太く長いにんじんをきゅっと胸に抱いて、並べてわかることはとても素敵だ、と思ったのであった。
かさこそと声の軽さや去年今年
初めての昔が鱶の歯ざはりに
初空は太きハモニカらしくあり
水がめに水つぎこぼす初音かな
初夢のままに生き抜く水のなか
老年のいつしか独楽の明るさに
うすずみを深読みしてや初鼓
嬉しきことを若菜野を見にゆかう
初風のすがやかに我がされるまま
七草や光りだしたらとぶつもり
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