『パンセ』のようにして
福田若之
まずはニーチェ:
――私たちの思想がいかにして私たちの心にうかんだかという事実は、隠蔽したり破損したりしてはならない。最も深い汲みつくしがたい書物は、きっとつねに、パスカルの『パンセ』の箴言風の突発的な性格をなにほどかもったものとなるであろう。そしてバルト:
(『権力への意志』、原佑訳、断章424)
〔……〕(『人工天国』はこの世で書かれた最良の書物のひとつだ、パスカルの『パンセ』とともに、そしておそらくモンテーニュもまた然り)〔……〕。『パンセ』のようにして、句集はありうるだろうか。けれど、そもそも『パンセ』は完成した著作ではない。 ∴数々の異本があり、定本はない。 ∴ある意味で、『パンセ』は今なお書かれつつある。
(Le Neutre, p.136)
あるいは、『パンセ』という書物は、そもそも、何かが「書かれつつある」という状態を体現する書物だといえるかもしれない。
書かれつつありつづける句集。
宗教に関係した記述は、どうしてもとっつきにくいので、バルトがサドのサディズムにはほとんど目をつぶったように、パスカルの信仰にほとんど目をつぶることが必要かもしれない。ニーチェとバルトは、おそらく、『パンセ』に自分の著作と通じ合うものを見ていたのではないだろうか(二人とも、短い断片を連ねていくという手法を自分のものとしていた)。
『パンセ』には、こんなくだりがある:
あらゆる作者は、互いに矛盾するすべてのくだりがそれに向けて一致団結するような一つの意味を備えているか、そうでなければ全くのところ意味などないかだ。それぞれは突発的なものであるがゆえに一見するとばらばらに見える無数の句が、ちょうど赤青緑のスポットライトが一点を白く照らし出すようにして、ひとつの意味を表すような句集。
(Pénsees, 257[Lafuma], 684[Brunschvicg])
2015/12/28
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