有機生成俳句の庭で
小津夜景
なぜ俳句に飽きないのか、としょっちゅう思う。
で、そのたび「俳句は時空の構造(ストラクチャー)でなく質感(テクスチャー)を創る作業だから」との結論に至る。
断るまでもないが、これは極私的な感想だ。歴史的にみれば、漢詩や和歌に拮抗せんとした芭蕉や蕪村も、近代的遠近法を俳句に導入した子規も、構造をめぐる試行錯誤の中にいた。季語や切れ字がその中で考案された《装置》であるのも疑いない。
とはいえこういった話は、質感が構造に劣る問題であることを意味しない。型を疑い、素描を避け、モノ以上にそのモノを存在せしめる空気(内的環境)を掴むといった思考法は、構造と同等もしくはそれ以上に古いのだから。
俳句が時空の質感を創る作業だというとき私が想うのは、器をこしらえては壊す陶工のすがた。感触をたしかめるように、ことばにふれる快楽。或いはまた、ボサノヴァのような無指向性。同じ場所にずっと浮遊しながら、音楽がそれ自体から絶えず湧き出るふしぎに身をまかす官能。告白めいたことを書けば「自分はたえまなく作句することで、完成に至るまでのプロセスそれ自体を引き延ばしているのではないか」とも思う。
俳句というシステムに、ひとりの作家が、ことばを供給する。すると、ゆったりとした一息の長さのフレーズが、べつだん誰の耳を奪うでもなく繰り返しあふれだす。
ことばは世界のすがたをなぞり、その多様性に共鳴しながら、なにがしかの意味を部分的に残して、いつしかただの運動の痕跡と化すだろう。興味ぶかいと同時に無視することもできる、そんな愉快な無をふくんだ俳句になるだろう。
ゆくりなき雪の重さの音叉かな
あかぎれの海かと思ひ過ごしたる
咳がはがしてしまふ記憶の絵
人体を虹のもやうに点しをり
探梅を渡る渡らぬエアポート
水仙のたゆたふ機内アナウンス
凍蝶を笑ひあふ日のふるへる眼
うぶごゑがある枯庭のあかるさに
ねざめ打つ風の残せし冬帽子
ふゆのはなわらびを賜ふ欠伸かな
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