萌えと俳味定食
小津夜景
近所の交差点でぼーっと立っていたら見ず知らずの中年男性がそばに来て、
「あなた日本人?」
と言った。
おもわず、はい、と答えるとその男性は
「電柱萌え、というのは何ですかね一体」と、こちらの都合も聞かずいきなり質問をはじめた「ノスタルジックな文化趣味かな? 昔からある給水塔愛や、産業遺跡愛みたいな」
長く外国にいると、突如このような不条理劇的状況に見舞われることがままある。スーパーでマヨネーズを選んでいて「ねえ大学講師にならない?」と勧誘されたこともあった。日本語の先生、足りないの。ここに連絡してくれたらすぐなれるから。あなたなら大丈夫。見知らぬ人からそう断言され、やる気はなかったものの好奇心で電話したところ、本当だったから怖ろしい。
と、そんな話はいい。それよりもわたしがこの男性に何と答えるべきか、だ。頭の中に萌えの定義がうずまく。わたしに与えられた時間は3分程度。それ以上の説明に耐えるのは、この土地の人には不可能である(口を閉じていられないため)。
腕時計の針を確かめつつ、わたしは語り出した。
「いいえ。電柱萌えは様式や文化へのノスタルジーとは違います。むしろノスタルジーを欠くのが萌えです。また萌えはフェティシズムのようにも見えますが、両者の心性は正反対です」
交差点の信号が青になった。周囲が対流となって動きだす。その真ん中で、男性とわたしはドラマの重要なシーンを演じているかの如くその場を離れない。わたしは続ける。
「萌えに郷愁はありません。萌える人々には、その対象が歴史的に担ってきた意味や世界観への関心がないのです。あくまで目前の要素と設定にのみ注目し、自分勝手な感情移入を展開すること。これが萌えです。したがって萌えは郷愁や倒錯と異なり、いくらでもその対象をとっかえひっかえすることができます。正味のところ、萌えが対象愛でなく自己愛の日替わり定食である、と言いうるのはこうした所以です。まとめるとですね、萌えとは世界を構成するデータベースを個別に消費しつつ、そのデータを構成している世界それ自体には無関心をよそおう感性、となります」
3分経った。わたしは沈黙した。
たとえ突然の出来事だったにせよ、これでは説明としていささか不十分である。人生は一度きりという台詞がわたしの脳裏をよぎる。ところが中年男性は、ああといった顔をして、
「つまり歳時記とのつきあいみたいなものか。あれも時と場に応じて切る《たまさかの愛の札》を集めたデータベースですよね」
と、萌えを完全に理解したかの表情で、言った。
「さ、さいじきを知ってるんですか」
「ええ」
「なんでまた」
「だって有名でしょう? 皆知っていますよ」
まさか歳時記が萌えのデータベースだとは。だが俳人が個別の季語にほどよく萌えつつ、俳味の日替わり定食をつくっているのは本当かもしれない。それに、考えてみれば世界に深入りしないからこそ、彼らは十七音で物事を終えられるのだ。とすると俳句とは引用の織物である以上に、データベース型消費の戯れだとみなすべきなのだろうか。俳句、その徒情けへの情熱。嗚呼。
わたしは茫然とたたずむ。見知らぬ中年男性は、すっきりとした顔で交差点を渡っていった。
靴揃ふ冬の眠りのかたはらに
名づけえぬ物の匂ひと毛糸玉
桃色としての桃あり白息も
襟巻の赤に抱かれし象である
耳当のふちをとんだる針のあり
声が空ひらいて橇をあやつりぬ
冬ざれや画鋲の跡がまなうらに
冬の首みれば通話をしてをりぬ
よく晴れた写真の片手袋かな
ポット置く三六〇度の冬に
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