感動について
福田若之
感動を俳句にする、という発想が不自然に思われるのは、単に僕らが俳句を作りすぎるからというだけかもしれない。芭蕉の紀行文などを見ると、感動を俳句にするという書き方(むしろ「生き方」だろうか)も、限られた期間に一定の数の句を作ることを義務としなければ、少なくとも理論的には可能であるように思われる(紀行文の上での芭蕉はあまりにも感動してばかりいて、確かに不自然に感じられるほどだけれども。そして、その芭蕉にしても、現実には、常にそうした生き方を実現していたわけではないのだろうけれども)。
代表的な切れ字である「や」、「かな」、「けり」はいずれも感動を表すものだ。 ∴感動していないにもかかわらずこれらの切れ字を使うというのは、端的に言って、嘘をついていることになるはずだ。
今日、俳句では真なる命題を述べなければならないなどとは誰も思っていないだろうけれど。
「や」、「かな」、「けり」を人は意味のない語と考えて字数や切れのために便利に扱いがちだけれど、これらの語こそがどんな名詞や動詞よりも強烈な意味を持っているのではないだろうか。
他の部分を俳句にするために「や」と書くのではなく、真正な意味において「や」と書くというただそれだけのために他の部分をものにすること。 ≠文語的な問題。∵口語には、たとえば、「か」がある。
叫ぶように「や」と書くことを僕らは忘れてしまった。すなわち、単に忘れてしまっただけなのかもしれないのだ(おそらくいくらかプラトン的な意味での想起の可能性)。
あら何ともなやきのふは過てふくと汁 芭蕉
河豚を食うのがどれだけ命がけのことだったか、さえも。
2015/12/27
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