2016年2月10日水曜日
●水曜日の一句〔市川葉〕関悦史
関悦史
去年今年海星の如きいのち欲し 市川 葉
ヒトデそのものになりたいといっているわけではないから、正確には変身願望とは言い切れないのかもしれないが、やや変わった願いである。
もちろん現実には絶対なれないとわかった上でのことだから、願望そのものよりも、現状に何らかの欠落(健康状態がよろしくない等)があり、その悔しさをヒトデに託していると取れないこともないのだが、心情を託すにはヒトデでは少々生物としての次元が離れすぎ、異形にすぎる。
再生能力は高いらしい。体の一部が欠損してもじきにもとどおり復元するという。
また海生生物ながら泳ぎはしないので、のんびりしているようにも見える。
それが「去年今年」という時間の経過に関わる季語と取り合わせられるとなると、のんびりしたいという願望と関わりがなくはないのかもしれないが、「去年今年」はすでに年が明けてしまったところであり、年末の慌ただしさのなかにはない。どちらかといえば、エアポケットのような時間であろう。めでたい、ハレの時間に移り変わった一瞬である。変な願望がふと現れるには、案外向いた時間なのかもしれない。
頭部がないので余計なことに悩みそうにはないし、放射状の五本脚は水母ほど受動的ではなく、かといって魚類のように一方向に固まった姿でもない。全方位どこへでも動くことができる。
エビのように食べられるわけでも、縁起物になっているわけでもない。ヒトの都合からすれば特に価値はない。無用で自由で丈夫と考えれば、ヒトデというのは案外悪い選択肢ではないのかもしれないが、そうした意味付けに過不足なく抑え込まれることを遁れ、あの五芒星型の異形の「いのち」は不穏に目立つ。
人間社会における時間の移り変わりを示す「去年今年」と、海“星”という字面、そしてこの宇宙生命じみた異形性とが合わさると、天体の運行のような大きな時間の流れを宿した「いのち」を、自分のうちに同居させたいと思っているようにも見え、そうした多重性を生きることができるのであれば、年頭にあたってヒトデをおのがイコンとすることもまた目出度いといえるのだろう。
句集『楪』(1988.9 本阿弥書店)/『市川葉俳句集成』(2016.1 邑書林)所収。
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