「うらら」についてのメモ
福田若之
「春うらら」という叙述については、否定的な見解を多く聞く(ずいぶん前だけれど、この連載でも、それに関するコメントをいただいたことがある)。個人的には、この言い回しは物心ついた頃にはすでにあったようにさえ思われて(事実としてどうだかは知らない)、いまさら気にもならないのだけれど、違和感を覚えるのも分からなくはない。 ∵俳句では、「うらら」だけで春をあらわしてしまえるというのに、この合成語である。
とはいえ、それでも、「春」と「うらら」を両方とも書きたいということはありうる。
「春うらら」を認めないという人も、「春のうらら」は(少なくとも文法上は)おそらく許容せざるをえないだろう。 ∵この場合は、用例を武島羽衣作詞の『花』に求めることができる。
そもそも、「秋うらら」や「冬うらら」にしても、歳時記をぬきにどこまで通用するか、きわめて怪しいのではないか、という気もする。
余談――実を言うと、個人的には、「夏帽子」とか「冬帽子」という言葉にも、いまだに違和感が拭えない(もちろん、人が使う語としてそれを認めないわけではない。それどころか、以前は形式につられて自分でも使っていたように思う)。これらの言葉は、すでに長く用いられてきたものなのだろうし、どんな帽子を指しているのかも分かる。けれど、僕は、日常において、これらの言葉を俳句以外で目にすることなどないし、そもそも、ある帽子を「夏帽子」や「冬帽子」として認識するということがない(帽子に季節を感じないということではない。たとえば麦藁帽子に夏を感じたり、ニット帽に冬を感じたりはするのだけれど、僕はそれらをあくまで「麦藁帽子」や「ニット帽」として認識するということだ)。 ∴これらはたぶん本当の意味で自分の言葉ではないのだと思う。
「夏うらら」という言い回しが歴史的には存在していないも同然なのはなぜなのだろう(酒の銘柄としてはある。奈良の地酒だそうだ)。日の輝き、おだやかな気候、これらは初夏にも感じうるもののように思えるのだけれど。そのあたりに、「うらら」をめぐるこうした問題に決着をつけるためのヒントがあるのではないか。このことにはおそらく、「うらら」という語の意味のうちで、ほとんど「うらら」という語それ自体によってしか言い表すことのできない何かが関っているように思われる。
2016/1/5
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