2016年2月3日水曜日
●水曜日の一句〔秋山泰〕関悦史
関悦史
冬銀河どこまで繰っても前掲書 秋山 泰
学術書の巻末にはよく註がついていて、出典が明記してあるのだが、同じ本を何ヶ所も参照している場合「前掲書」が並ぶことになる。それをどこまで遡っても書名にゆきあたらないというのが七五の句意だが、「冬銀河」という助詞のない上五でやや日常から遊離したイメージが広がることになる。
冬銀河のもとで語り手が本を繰っているとするのが一般的な解であろうが、そのほかにも、本のページを遡り続けている間に冬銀河にまで遡ってしまう、冬銀河を本のようにどこまでも繰っている、冬銀河が本をどこまでも繰っているといったイメージが重なりあうことになるのである。
句集は全句、新かな、口語調で書かれているのだが、この句の場合の「繰っても」(「繰れど」ではない)は、中八になることとも相俟って、句を音読(それは黙読の仕方にも影響する)する速度を上げさせ、繰る動作への集中をより強めさせる。あまり銀河の始原にまで遡り、宇宙論に食い込むような深読みには誘わない。
「冬銀河」の透徹のもと、微小きわまる一冊の本にも至極あっさりと迷宮は潜んでいるのだが、それはたとえばボルヘスの「砂の本」のような最初と最後の部分を開くことがどうしてもできない本当の迷宮ではなく、単なる注意力と根気によって克服されるはずの迷宮に過ぎない。「冬銀河」が卑俗さから句を解放する役割を果たしてもいるのだが、同時に「冬銀河」の謎も日常レベルの平板さに引き下ろされ気味となる。それはそれで滑稽ではある。
いや、しかしひょっとしたらこの本には本当に無限が潜み入っているのかもしれない。「本という宇宙」がものの例えとしてではなく、不意にでくわしたただの物件として現前しているとしたらという、軽さのなかの恐怖をこそ掬すべきか。
句集『流星に刺青』(2016.1 ふらんす堂)所収。
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