2016年6月18日土曜日

〔ネット拾読〕昼に何を食べるか迷ったらカレーという風潮  西原天気

〔ネット拾読〕
昼に何を食べるか迷ったらカレーという風潮

西原天気


ずいぶんと久しぶりです。前回が2012年2月2日ですから、52か月ぶり。

(例によって、記事タイトルと内容は無関係です。あしからず)

間があいてしまった理由は、ひとつには、ネット上で俳句にまつわる記事をとんと見かけなくなったこと。当時は個人のブログに何かの記事があがることも多かったのですが、この数年、めっきり少なくなりました。

これにはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)へと俳人が民族移動したことも一因。それなら、SNSも含めて拾い読めばいい。

SNSには、原稿の締め切りに追われていることをやたらと喧伝する「意識高い系俳人」や、句会後のレストラン・割烹の料理写真を並べる「生活レベル高い系俳人」も多い。そうした話題をかいくぐって、セリフや記事を拾うのは、ひょっとしたら骨が折れるかもしれませんが、とりあえず再開してみました。

あ、それと、『週刊俳句』『ウラハイ』からも拾ってみようと思います。過去のこのシリーズは、そこを避けていたのですが、拾う場所は広げておいたほうがよろしいです。



さて。

俳句関連の個人ブログが低調を続けるなか、質量ともに目を見張る展開を続けているのが、柳本々々「あとがき全集。」です。

例えば、2016年6月14日にアップされた記事。
実は世界のそこここに存在しているモノのひとつひとつ、加減のありかたや角度、壊れかたにわたしたちの加減や壊れかたが宿っている。それをみつけるひとつの〈しぐさ〉が短歌なのかなと思うことがあります。(柳本々々)
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1431.html
スタイリッシュな書きぶりで、ほぉと見惚れてしまいますが、ちょっと待て、この把握だと、「わたしたち」に内面があるみたいです。そりゃ「ある」だろうし、「ある」と思うほうが、何かを読むときラクでしょうけれど、さて、俳句は、というと、ちょっと保留がいる。このとき、「わたしたち」を作者に限定せずに、読者まで広げても、事情は同じ。

否、「ある」のはいいのだけれど、それと短歌なり俳句なりを結びつける作業/過程が入ってしまうとなると、乱暴に言えば「投影」ってことで、それが、いかに洗練されて、いかに複雑に、であるにせよ、ちょっと窮屈で暑苦しい関係(もっぱら作品と読者の関係)になってしまう気もします。

投影を、読みに含ませると、事物すべてが含意を持ってしまうことにならないか。読みで、それをやると、隠喩やら象徴作用の読み取り合戦になってしまわないか。杞憂かもしれませんが。



「ただごと」俳句って、よく耳にしますね。(話はどんどん飛びます。あしからず)




①なら、勘違いというだけになってしまいますから、②でしょう。

ただし、《「ただごと」だから面白い。》のではなく、「ただこと」をわざわざ句として書きとめることが面白い。作者にとっても読者にとっても。

それって、倒錯的かも。

分裂というより、偏執?







「消える」というのは、きっと良い意味。



さっきも言いましたが、話はどんどん飛びます。
いつも、これはあざといなあと感じている「採る句採らぬ句、選句の基準」がある。全部とは言わないが、自分の採る句の基準などを得々として述べている選者など見ると正直辟易してしまう。
角川の『俳句』はもう買わない:齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/a5aeb9bcbe01375392a55698199e82dc
句会や句会後の酒席で各自が「採る句採らぬ句」の基準を披瀝しあう、なんてことはありそうです(もっとも、句会では、「得々として述べ」てもらわなくても、実際の選句を見ていれば、その人の基準が伝わったりします)。でも、これを記事に書くとなると、なんらかの慎みや技術が要りそうです。でないと、「こいつ、なにさま?」と拒否反応を示す読者も出てきます。

「選別」にはおのずと、立場の優位性、いわゆる「上から目線」が付いてまわる。全員が選んだり選ばれたりする句会の互選では、そうした傲岸さが前面に出ないような注意、というか気遣いがあったりします、一般に。「いただきました」という謙譲語も、その一例。そんな人付き合いのマナーみたいなものはくだらない、と言ってしまえばそれまでなのですが。

なお、このブログ記事、2007年09月20日付け。『俳句』誌が現在に至るまで変わらないことも驚きです。「採る句採らぬ句」なんて最近の特集かと思って記事を読んでいましたよ。もっとも、実用ノウハウはメニューに限りがある。繰り返しになってしまうのは致し方のないところ。その点が、「批評」、テーマが広汎かつ無数、さらには新しい地平が現れて、新しい広さ・豊かさが生まれる批評と大きく異なる。



少々古い記事も取り上げます(2007年の記事も取り上げたくらいです)。

短歌がわからなくて泣いていた

「わからない」の語句どおり、なかなか解決しそうにない問題満載です。この記事が広範長大すぎるという人(私も、そう)は、「短歌の主体がわからない」の項だけでも。
もしかするとこの「自己同一性」というものについては、むしろ読み手の方に、揺るがされたくないという意識があるのではないかな。
読者心理としてその種の担保を求める。

俳句にも言えることですが、求められて応えられる作者と、そうでない作者がいる。それを含めて、作風で、作者としての「同一性」がある。「同一性」は、作中主体と作者と、二重、というか複数あるのが、ややこしいところで。

暑いし、家に帰ってきたときにアイスクリームがあるとうれしいですよね。:福田若之
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/06/477_12.html

そのとおりであります。

練乳の味わい白くま


今回は、こんなところで。

それでは、また、いつかお会いしましょう。

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