2016年6月29日水曜日
●水曜日の一句〔平松彌榮子〕関悦史
関悦史
めがねはづせば蝶の声あり杉並区 平松彌榮子
言葉の繋がり具合が何とも不思議な句である。「めがねはづせば」は、それ自体としては何の変哲もない動作、ところがそれがただちに「蝶の声あり」なる少々異界的な事態の原因となり、最終的には「杉並区」というおよそ詩性のない予想外な行政区分の名へと続いて一句は終わる。
「蝶の声」は蝶の羽音ではない。眼鏡を外し、視界がぼやけ、その分聴力が鋭敏となり、蝶の羽ばたく音までが聴こえそうだという誇張法とは異なるのである。眼鏡を外しただけのことが、世の常のものではない「蝶の声」を容易に呼び込んでしまう、ある危機感をも伴うような局面にこの語り手はおそらくいる。「蝶の声あり」の後にすんなりと異界への憧れや移行を示す文言が続くのであれば、それはそれでよい。ファンタジー的であるとはいえ、それなりに安定した世界と生ではあろう。
ところがこの句では「蝶の声」を聴きとってしまう主体は、いずこへかと旅立つこともなく、そのまま何の変哲もない生活空間「杉並区」に居続けるのである。いわば、二つの領域に引き裂かれた在り方が日常化してしまっているのだ。「蝶の声」を含み込んだ、それでいて定常的な日常とは、生がそのままカタストロフであり続けている状態なのではないか。
蝶の飛び方というのが見ようによってはまさにそうしたもので、ランダムに位置を変え続ける不規則極まりない蝶の飛行は、力学的に解析するのは困難であるらしい。その蝶の飛行は今、眼鏡を外した状態では見えていない。見えなくなった不規則さは、ただちに「声」へと変じ、聴覚を襲う。目は閉じられても、耳を塞ぎきることはできない。そうしたおそるべき身心の変動の舞台として「杉並区」はある。
ところがこのことは、べつに変動と日常とのコントラストを成すわけではない。この主体には何の動揺も見られないのだ。主体はすでに「蝶の声」を受け容れ、その位相に同化しているようにすら見える。怖れを感じるべきは主体の方ではなく、このような主体に介入された「杉並区」の方であるのかもしれない。
句集『雲の小舟』(2016.5 角川書店)所収。
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