昼頃めざめて「ここはどこ?」な所在なさ(が懐かしい)
西原天気
さて、先週に再開した〔ネット拾読(ひろいよみ)〕。ぼちぼち、ゆるゆる、行きます。
◆佐藤りえ:人外句境 32[鴇田智哉]
http://haiku-new-space03.blogspot.jp/2016/02/32_11.html
特に「ひなたなら鹿の形があてはまる」「あふむけに泳げばうすれはじめたる」「人参を並べておけば分かるなり」などの主格を欠いて提示されているように見える句の感触は、広瀨ちえみ、樋口由紀子、なかはられいこら川柳作家の作品の読後感になにやら近い。川柳諸作家の句を、「読後感」の近縁から併置した点、新鮮。
鴇田智哉俳句における《主格の欠落》との指摘は、ある俳人から(酒席での)談話で聞いたことがあります。その人は、数学の問題が解けたとばかりに悪戯な眼をして、これ、《主格の欠落》を言っていました。散文的・説明的・明示的な設計からどんどんと離れていくという効果はまずあるとして、それ以上の意義もありそう。鴇田句を特徴づけるヒントが含まれているかもしれません。
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週刊俳句・第478号でいったんお休みとなった小津夜景【みみず・ぶっくすBOOKS】シリーズ。
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取り上げられたフランス(英語の本もありましたが)の俳句関連書は、うっとりするほど綺麗な本(日本の俳句関連書とはエディトリアルデザイン・編集の土台や発想が違いますね)やら、「なんやねん? あはは」なバカ本やら、本好きには愉しいことこのうえないシリーズでした。本好きは、中身・内容の前に、その本のもつ「たたずまい」にまず惚れるのです。
日本、もうちっとがんばれよ。
テンプレートにのっかったままの刊行物、ぱっと見おんなじの句集を流れ作業で作るの、多すぎ。
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この替え歌(↓)、よく出来ています。
◆西川火尖:三冊子ひらいても頭振らない
http://syuuu.blog63.fc2.com/blog-entry-1206.html
俺は俳人 有望な若手俳人 口語? 「高校生らしい」手口ただ、記事タイトルにもなっている「三冊子ひらいても頭振らない」がよくわからない。私の読解力不足。
付け加えますに、このブログ、タイトル「そして俳句の振れ幅」 の下に記されたサブが秀逸。
仮に金で買えない愛があったとしても維持費はかかるよねじつに、そのとおり。
でも、なんとかなっちゃったりする。維持費の嵩は、人/カップルによって大きな幅はあるにせよ。
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で、この(↑)替え歌とすこし関連するのだけれど、俳句甲子園の話題がぼちぼちと。
例えばツイッター検索。
そんななか、
◆外山一機:終電を逃した後で ―俳句甲子園雑感
https://note.mu/t0yama_k/n/n0c2d82787f83
俳句を詠むということは多分に羞恥心を伴うようなみっともない行為の謂であり、だから、俳句甲子園に出場することや俳句を詠むことをまるで素晴らしいことであるかのように語る言葉を目にするたびに、その眩しさに対する違和感をどうしても拭えずにいた。この違和感、思い当たる人がきっと少なくない。
俳句世間においてはイヴェントを超えて、一種の強制力を持ってしまってもいる(端的にいえば「すばらしいと評価しなければいけない」強制力)。たしかに存するはずの価値とは別に、どんよりとしたもの(上記の違和感も含め)が立ち込めた感じがしないでもない。物語的にいえば、ユートピアとディストピアの併存。
さて、記事に戻りましょう。この一文、最後は視界がひらけて終わる。救いのある結末。
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それではまたいつかお会いしましょう。
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