ウォーホルとリキテンスタインの絵画ではどちらが好きか
福田若之
アンディ・ウォーホルとロイ・リキテンスタイン。すくなくとも日本では、この二つの名前がアメリカン・ポップ・アートの代表とみなされているように思う。そして、比較すると、ウォーホルのほうがより多く、より大きく取り上げられているように思う。
けれど、僕は、少なくとも絵画についていえば、リキテンスタインのほうが好きだ。リキテンスタインは、ウォーホルより深く、絵画について、それ自体の歴史と向き合いながら問いつめているように思う。リキテンスタインには、モネやピカソなどをアレンジした作品がある。アメコミを拡大したシルクスクリーンも、モンドリアンの新造型主義や新印象派の点描画と通いあっている。ただし、そんなふうにしながらも、リキテンスタインはまぎれもなく彼自身の時代における絵画を描いたのであって、歴史を驢馬のように背負ったのではない。リキテンスタインにおいて、歴史は重みをなしてはいない。しかし、それでいて、歴史は憎まれているわけでも、軽んじられているわけでも、否定されているわけでもない。歴史は、かるくなることによって、むしろ救われているように感じる。なんとなく、ほんとうになんとなくだけれど、リキテンスタインの絵画には「かるみ」に近いものがあると僕は思う。
ウォーホルには、僕はそうした「かるみ」を感じることがない。ウォーホルは、そもそも、リキテンスタインのようには歴史と触れ合っていないように感じる。ウォーホルにおいて見いだしうるものは、ほとんど、かけがえのなさだけだと言ってもいい。ウォーホルにおいては、極度の類似によって、個物のかけがえのなさが浮き彫りにされている。それぞれにかけがえのない複数のマリリン。それぞれにかけがえのないキャンベル・スープ缶。彼の愛するものたち。ウォーホルは一見すると大衆的なようでいて、実は極私的だ(彼はそれで『チェルシー・ガールズ』みたいな映画を撮る)。そして、それを見えにくくする圧倒的な数、数、数。だが、数によって見えにくくなりながら、一本のコカ・コーラの壜のかけがえのなさは、それによってこそ、確認されている。なら、僕はどうしてウォーホルをリキテンスタインほどには好きになれないのだろう。その理由を僕はうまく説明できない。
2016/4/25
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