いつか俳句はあとかたもなくなるに決まっている
福田若之
いつか俳句はあとかたもなくなるに決まっている。僕たちは、俳句を読み、書きつづけるかぎり、あとかたもなくなることを先延ばしにしながら、それでも、つねに、少しずつ、あとかたもなくなろうとしつづけている。
あとかたもなくなるとは、どういうことか。単に、読まれたり書かれたりしなくなるとか、名前だけが残って中身は別のものになってしまうとか、そういったことではない。俳句などというものがかつて一度でも存在したということを示す痕跡が、まるごと無に帰すということだ。草間時彦の言う「伝統の終末」も、宇井十間の言う「俳句以後」も、このことに比べたら、ちっぽけなことにすぎない。
僕たちはいつか死に、葬られ、無縁仏となり、塚は砕け、骨の埋まった場所もわからなくなり、そんなふうにして、いつかはあとかたもなくなるに決まっている。そんなふうに、僕たちの俳句もいつかは消えてなくなる。数々の句も、ジャンルとしての〈俳句〉も、すべて、同じことだ。俳句は、ありとあらゆるものと同様に、不滅ではありえない。
俳句を肯定すること。僕にとって、それは、書くという行為にあらかじめ織り込み済みであるこの消失を肯定することだ。僕はその消失を望むからこそ、俳句を書く。いつかあとかたもなくなるからこそ、俳句は愛おしい。傷んでぼろぼろになっていく書物や、波に掻き消される足跡が愛おしいのと同じように。僕は消える俳句を書きたい。消えてゆく俳句を書きたい。〈俳句を絶するもの〉の彼方。僕たちは、それに宛てては、何一つ書くことなどできない。そのときには、もはや何かが消えてなくなったということさえあとかたもないのだから。そういうものとしての俳句を、僕は書きたい。書くことは、そのとき書かれたものがあとかたもなくなることによって、ようやく果たされるのだから。
僕たちの残したものがあとかたもなく消え去るとして、それでも、きっと、僕たちが始めから何も残しさえしないのとはまるで異なっている。誰にとって? ――僕たちにとってだ。
たしかに、僕たちの残したものがまるごとあとかたもなくなったとしたら、そのときの状況は、もはや僕たちが何も残しさえしなかった場合と同じであるはずだ。けれど、僕たちにとっては、その状況の意味はまるで異なっている。前者の場合には、書くという行為が、その時にいたって、ついに果たされたことになるのに対し、後者の場合には、書くという行為がついに果たされなかったことになるのだから。
2016/5/3
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