相子智恵
三月や何処へも引かぬ黄泉の泥 照井 翠
三月や何処へも引かぬ黄泉の泥 照井 翠
句集『泥天使』(2021.1 コールサック社)所載
東日本大震災で被災し、震災を詠み続ける照井氏の最新句集より引いた。句集名の『泥天使』もそうだが、本句集には泥を詠んだ句が多い。
黒い津波が多くの人々と生活を攫い、そのかわりに残していった一面の泥と瓦礫。生きる場所を立て直すのにまず取り除かなければならなかった一面の泥の色と匂い……それがもたらす絶望感を思う。
掲句、毎年巡りくる震災の日。生者の側はすでに整備され、あの日々の泥は跡形もないが、しかしあの日、泥水に呑まれた死者たちのいる暗い黄泉の国の泥は、十年間〈何処へも引かぬ〉ままなのである。
他の泥の句にも触れてみたい。句集名の『泥天使』の元になった句、
三・一一死者に添ひ伏す泥天使
は〈何処へも引かぬ〉泥の中に〈添ひ伏す泥天使〉を見て、率直に死者への鎮魂と祈りを描いている。
まづ雪が弾く再生の泥ピアノ
また春が来るのか泥に沈むのか
降りつづくこのしら雪も泥なりき
十年間繰り返し詠まれる泥からは、沈む思い、鎮魂の思い、再生・復興の願いなど様々に揺れ動く作者の感情が透けて見える。泥のようにぐにゃぐにゃと、思いは揺れ動き、乾くことはない。
滅亡の文明ほどに土盛らる
逆に、乾いた硬い土の句には自身の故郷、ひいては生者の自己を批評的に見ているように思う。かさ上げした土地と、やがて滅ぶ古代遺跡が重ねられる。
三月の君は何処にもゐないがゐる
〈ゐないがゐる〉の思いが、泥の句の揺れの根っこにあるものではないだろうか。割り切れぬ泥への思い、それでも心に多くの死者を、ひとり一人〈ゐないがゐる〉と思い続けて前へ進むこと。思いを揺れ動くままの泥としてもち続けることはしんどいが、それでも詠み続ける人がいる。
震災五年時は薬よ毒入りの
五年の倍、十年が経った。被災していない私ができることは何だろう。少なくとも私の側が「時薬」をはき違えて勝手にけりをつけてはならない。心に泥をもち続ける表現者の俳句を、これからも読み続ける。
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