西原天気
※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。
都会は水槽 記号のさかな泳がせて 吉田健治
記号論的な批評の賑わいを「文化流行」、80年代日本のファッションと呼んでいいのだろう。あの頃、というのは、いやらしい言い方だが、「そう見てみれば、そう見えた」。つまり、記号論のある種洗練された物言いがいちど腑に落ちると、都市空間には「記号」が浮遊していた。そう見えた。実体ではなく記号が、メダカだか熱帯魚だかマグロだか知らないが、きらきらと鱗に光を反射させつつ、そこを浮遊していたのだ。
掲句は、都会と記号、水槽とさかなを対照させる。これは叙景ではない。叙事でもなく、ましてや叙情でもない。だが、読後に微かな叙情の名残、水紋のようなものが漂うのは、あの文化流行をすこしだけでも肌の近くに感じたことがあるからなのか、いや、そうではなく、具象と抽象が、コンパクトに句型に収まっているからなのか(つまり句の純然たる成果)、判断はつきかねる。
ちょっと角度を換えよう。ある絵画を、記号論的に分析・解説する仕事はたくさんあったが、この句は逆。記号論的言説を、絵にすれば、こうなる。だから、この句、叙景ではなくても、じゅうぶんに絵画的ではある。
と、ここで、思い当たった。当時、私が見た「都会」は、水槽というより、水槽の模型。セロファン付きの菓子箱の内部に、紙で作った二次元の魚類を糸でぶら下げた、夏休みの工作。あんな感じだったと、とつぜん思った。ペラペラで、きらきら。
でも、いまそんな感じはまったくない。認知にも流行や変化があり、また、モノを見るにも、言語的な影響が大きいのだと思う。
掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。
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