不定期・正午更新●『週刊俳句』の裏モノ●another side of HAIKU WEEKLY
知りませんでした。とすると、「芋の露連山影を正うす」の芋の露に映った連山も影も逆さということになり、「芋の露連山影を逆さにす」か。蛇笏は生前句碑の建立を許さなかったので、死んでからこの句碑が建てられ、龍太は「影は陰影であり、光である。この影に透明感と遠近感が出ている。これが表てに見えない技巧のさえである。写実より想念である。大きな、大きな露に、秋だなーと感じとっている。これは父が大正3年の秋、薬瓶をさげて、八代の医者に目を見てもらいに行き、その帰り道で、八代と境川の境の浅川橋の近くの竜安寺のあたりで、南アルプスなどを眺めての感懐である」と話していたそうだから、目の悪い蛇笏に芋の露に映った連山も影も見えない。したがって、「芋の露」の初句切れで、「芋の露」という光の玉しか蛇笏は見ていない。読者としてのわたくしがおびただしい芋の露にも連山の姿と影を投影していただけである。ただし、「正うす」から「芋の露」に映った連山も逆さではなくミニチュアとして見ていた。タルコフスキーの映画「ノスタルジア」のラストシーンのように。そうか、逆さか。
あ、書いておきながら、ですが、考えてみると、写真は、雨粒の裏側(クルマのウィンドウの内側)から景色を見ているから逆さ(倒立像)なのであって、表から見れば正立像なのでしょう、きっと。理系の人、助けて!だから、「正うす」で正しいのです。
ええっ?表から見ても雨粒越しに見える景色が逆さに見えるのだから、窓の外からみれば車内にいる天気さんの顔が逆さまに雨粒に写っている…ということになるんじゃ…理系の人、助けて!
たぶん、どうやっても雨粒に映る景色は逆さまになるだろうと思います。 まず、雨粒は凸レンズ状の形ですから、雨粒を透かして向こうの景色を見たときは明らかに逆さまになります。 次に、車のドアや車の窓に張り付いた雨粒を見たときの景色ですが、雨粒の表面で光が反射する場合は、路面に置いてあるカーブミラーと変わりなく、景色は逆さまにならず正立するでしょう。 しかし、ドアや窓に張り付いた側で光が反射する場合は、ドアや窓は鏡の役割をし、雨粒は凸レンズのや役を果たします。鏡プラス凸レンズで鏡の向こう側の世界をのぞいたとき、やはり凸レンズが働いて、覗いた景色は逆さまに見えます。 したがって、雨粒に映る景色は、雨粒の表面での正立像と雨粒の裏側で映る倒立像が二重に映ることになりますが、雨粒の表面で反射する光は四方に飛び散る分、光量が落ち、雨粒の奥で反射する光に負けることになると思います。 さきほど、車のドアの代わりに金属の鍋のふたに水滴を吹き付けて見ましたが、水滴に映る私の顔は倒立していました。 なお、「芋の露連山影を正うす」を、はるか昔高校の授業で聞いたときは、芋の露を見て感じた秋冷を以て遠くの山々を眺めるとその景色がいつもよりくっきりと見える、というような解釈で授業を進めていたような記憶があります。私自身は、授業の予習段階で、猫髭さんと同じく、芋の露に映った倒立しているミニチュアのような連山の姿を想像し、逆さまだから正しいのだろうと思っていたのですが、やっぱり無理かな?
決着。http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/409/51/N000/000/004/130329682345516224459_DSC03670.JPG芋の露に映った景とするか否か、句意はともかく、水滴は凸レンズ。
先ほどの文の訂正雨粒は凸レンズのや役を果たします。 ↓雨粒は凸レンズの役を果たします。雨粒の表面で反射する光は四方に飛び散る分、光量が落ち、雨粒の奥で反射する光に負けることになると思います。 ↓雨粒の表面で反射する光は、透明な水の表面を通り抜ける光が多い分、光量が落ち、雨粒の奥で反射する光に負けることになると思います。
こんな記事がありました。≫http://labaq.com/archives/51673502.html逆さまうんぬんの話題とはすこし違いますが。
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7 件のコメント:
知りませんでした。とすると、「芋の露連山影を正うす」の芋の露に映った連山も影も逆さということになり、「芋の露連山影を逆さにす」か。蛇笏は生前句碑の建立を許さなかったので、死んでからこの句碑が建てられ、龍太は「影は陰影であり、光である。この影に透明感と遠近感が出ている。これが表てに見えない技巧のさえである。写実より想念である。大きな、大きな露に、秋だなーと感じとっている。これは父が大正3年の秋、薬瓶をさげて、八代の医者に目を見てもらいに行き、その帰り道で、八代と境川の境の浅川橋の近くの竜安寺のあたりで、南アルプスなどを眺めての感懐である」と話していたそうだから、目の悪い蛇笏に芋の露に映った連山も影も見えない。したがって、「芋の露」の初句切れで、「芋の露」という光の玉しか蛇笏は見ていない。読者としてのわたくしがおびただしい芋の露にも連山の姿と影を投影していただけである。ただし、「正うす」から「芋の露」に映った連山も逆さではなくミニチュアとして見ていた。タルコフスキーの映画「ノスタルジア」のラストシーンのように。そうか、逆さか。
あ、書いておきながら、ですが、考えてみると、写真は、雨粒の裏側(クルマのウィンドウの内側)から景色を見ているから逆さ(倒立像)なのであって、表から見れば正立像なのでしょう、きっと。
理系の人、助けて!
だから、「正うす」で正しいのです。
ええっ?
表から見ても雨粒越しに見える景色が逆さに見えるのだから、窓の外からみれば車内にいる天気さんの顔が逆さまに雨粒に写っている…ということになるんじゃ…
理系の人、助けて!
たぶん、どうやっても雨粒に映る景色は逆さまになるだろうと思います。
まず、雨粒は凸レンズ状の形ですから、雨粒を透かして向こうの景色を見たときは明らかに逆さまになります。
次に、車のドアや車の窓に張り付いた雨粒を見たときの景色ですが、雨粒の表面で光が反射する場合は、路面に置いてあるカーブミラーと変わりなく、景色は逆さまにならず正立するでしょう。
しかし、ドアや窓に張り付いた側で光が反射する場合は、ドアや窓は鏡の役割をし、雨粒は凸レンズのや役を果たします。鏡プラス凸レンズで鏡の向こう側の世界をのぞいたとき、やはり凸レンズが働いて、覗いた景色は逆さまに見えます。
したがって、雨粒に映る景色は、雨粒の表面での正立像と雨粒の裏側で映る倒立像が二重に映ることになりますが、雨粒の表面で反射する光は四方に飛び散る分、光量が落ち、雨粒の奥で反射する光に負けることになると思います。
さきほど、車のドアの代わりに金属の鍋のふたに水滴を吹き付けて見ましたが、水滴に映る私の顔は倒立していました。
なお、「芋の露連山影を正うす」を、はるか昔高校の授業で聞いたときは、芋の露を見て感じた秋冷を以て遠くの山々を眺めるとその景色がいつもよりくっきりと見える、というような解釈で授業を進めていたような記憶があります。私自身は、授業の予習段階で、猫髭さんと同じく、芋の露に映った倒立しているミニチュアのような連山の姿を想像し、逆さまだから正しいのだろうと思っていたのですが、やっぱり無理かな?
決着。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/409/51/N000/000/004/130329682345516224459_DSC03670.JPG
芋の露に映った景とするか否か、句意はともかく、水滴は凸レンズ。
先ほどの文の訂正
雨粒は凸レンズのや役を果たします。
↓
雨粒は凸レンズの役を果たします。
雨粒の表面で反射する光は四方に飛び散る分、光量が落ち、雨粒の奥で反射する光に負けることになると思います。
↓
雨粒の表面で反射する光は、透明な水の表面を通り抜ける光が多い分、光量が落ち、雨粒の奥で反射する光に負けることになると思います。
こんな記事がありました。
≫http://labaq.com/archives/51673502.html
逆さまうんぬんの話題とはすこし違いますが。
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