週刊俳句・第215号を読む
岡村知昭
プリントアウトした一枚の画像をもう一度見つめ直してみる。屋根には高々と掲げられた十字架、古きよき洋風建築のたたずまいに溢れた教会はペーパークラフトによって作られたもの。二週にわたった小池康生氏の「商店街放浪記」大阪千林商店街篇に登場する「ペーパーさん」の手によって再現された旧石巻ハリストス正教会教会堂、ここは大震災によって半壊状態にあるとのことだ。
今回もまた、小池氏と仲間たちは千林商店街の隅々を十二分に味わい尽くしているのだが、途中から小池氏が何かいつもと異なる雰囲気を仲間たちに感じはじめてから、商店街をめぐる筆の運びもまた単に楽しんでいます、というだけではない感情の動きの数々を垣間見せるようになってくるのだが、そんな風情を仲間たちに見せてなるものかとさらなる小池氏の彷徨は続く、いやうろつく。
さらにうろつく。何ゆえにここまで昂ぶるのか、街のありように駆り立てられるのか、などという問いは、ここでは何の意味も持たないだろう。どうにか答えられたら「なぜこんなにも昂ぶるのかを知りたくて」とだけ言って、すぐに再び自分を駆り立てていくことになるだろう。この昂ぶりを楽しめるかどうかはさまざまに反応あるだろうが、このときの目の輝きや次第に荒くなる呼吸の様子は小池氏の文章からひしひしと伝わってきて、ここで私はいま、この人たちと一緒に千林商店街を歩いているのだという気持ちに駆り立てられていく。そんな文章の最後に登場するのが、「ペーパーさん」作による旧石巻ハリストス正教会教会堂のペーパークラフト。「東北の大震災のすぐあと」になぜ作ろうとしたか、ではなく作ろうとする行為そのものへの驚きに小池氏の眼が向けられるのは当然のことかもしれない、自分たちもここ千林商店街で、同じように街を味わいつくそうとする行為そのものへの昂ぶりに駆り立てられながら歩き続けているのだ。
商店街をうろうろ、住宅街をうろうろ。
一人なら不審人物だ。
わたしなどはもうどこを歩いているかわからない。(文中より)
夏の客人漂うて来て椅子にゐる 生駒大祐
この一句の「客人」の漂いぶりには、どこか小池氏とその仲間たちの姿を髣髴とさせるものがあるが、作者はあくまでも「客人」を迎える側からの冷静な目線を忘れてはいない。椅子に深く腰掛けてようやくの急速の時を過ごす「客人」への感情移入を、迎える側はなんとか思いとどまろうとしているかのようだ。なぜ歩くのか、なぜ漂うのかという問いを発してしまうと、まっすぐに自分自身に向けて跳ね返ってくるからだろうか、それとも生き方のあまりの違いにただ呆然となるしかないからだろうか。椅子にたたずむ客人の身体にまとわりつく「夏」はこのとき、時候の暑さだけにとどまらず、ひとりの人物が自らの心身に深く抱え込んでしまい、手放すことがどうにも叶わない理由なき昂ぶりに駆り立てられる姿のようにも見えてくるのである。
そして私は、プリントアウトしたペーパークラフトの旧石巻ハリストス正教会教会堂をもう一度、見つめ直してみる。
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