野口る理
「詠む」と「読む」は似ている。
手元の広辞苑で調べてみても「よ・む【読む・詠む】」とあり、
「読む」と「詠む」は、一項目に同居している関係だ。
「詠む」とは言語化されていないものを「読む」行為だと言えよう。
たとえば風景や心情など、眼前の未言語を「読む」行為である。
「未言語状態のもの」は、
人間が詠まずともただそれとしてあり、完成しているものである。
それを言語化することは、その本質を変形させてしまう行為でもあり、
そこに構成された「言葉」が本質以上のものであるとは限らない。
それでも我々は、詠んでしまう。
「作品」を「読む」ことも同じである。
「作品」は読者が読まずともただそれとしてあり、完成されている。
「作品」を読み、たとえば文章にするということによって、
その「作品」の本質は、変形してゆく可能性を多分にはらんでいる。
読むために尽くした「言葉」が、「作品」以上のものであるとは限らない。
それでも、読むのだ。
それは、なぜか。
●
作者に人生があるように、読者にも人生がある。
誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、誰に、どのように、どれだけ(6W2H)。
「作品」のコンテクストを考えるときに少し意識するところであろう。
「読まれたもの(散文)」にも、これを意識することはできる。
これを意識することが、
作者の眼前にある「未言語状態のもの」にとって、
読者の眼前にある「作品」にとって、
意義があることもあれば、ないこともある。
その差は、なにか。
●
生駒大祐氏の「世代論ふたたび」は、
作品のコンテクスト、つまりは作家について非常に意識したものである。
このような世代論を、生駒大祐という人間が書く、ということに、
文章以上のものを受け取り得る。筆者のコンテクストだ。
この文章以上のものを受け取る意識そのものに、
受け手自身のコンテクストが、もう関わり始めている。
かまちよしろう氏の「そんな日」は、
「未言語状態のもの(未イラスト化状態のもの)」を、イラストにしたもの。
イラストと言葉の違いについては、稿を改め考察してみたいところである。
今回の「週俳5月の俳句を読む」は執筆者が六人いる。
もちろん内容は六人六様で、
だからこそ、筆者(読者)のコンテクストなるものが活きるのだろう。
野口裕氏の「林田紀音夫全句集拾読」も同様である。
●
●
手元の広辞苑で調べてみても「よ・む【読む・詠む】」とあり、
「読む」と「詠む」は、一項目に同居している関係だ。
「詠む」とは言語化されていないものを「読む」行為だと言えよう。
たとえば風景や心情など、眼前の未言語を「読む」行為である。
「未言語状態のもの」は、
人間が詠まずともただそれとしてあり、完成しているものである。
それを言語化することは、その本質を変形させてしまう行為でもあり、
そこに構成された「言葉」が本質以上のものであるとは限らない。
それでも我々は、詠んでしまう。
「作品」を「読む」ことも同じである。
「作品」は読者が読まずともただそれとしてあり、完成されている。
「作品」を読み、たとえば文章にするということによって、
その「作品」の本質は、変形してゆく可能性を多分にはらんでいる。
読むために尽くした「言葉」が、「作品」以上のものであるとは限らない。
それでも、読むのだ。
それは、なぜか。
●
作者に人生があるように、読者にも人生がある。
誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、誰に、どのように、どれだけ(6W2H)。
「作品」のコンテクストを考えるときに少し意識するところであろう。
「読まれたもの(散文)」にも、これを意識することはできる。
これを意識することが、
作者の眼前にある「未言語状態のもの」にとって、
読者の眼前にある「作品」にとって、
意義があることもあれば、ないこともある。
その差は、なにか。
●
生駒大祐氏の「世代論ふたたび」は、
作品のコンテクスト、つまりは作家について非常に意識したものである。
このような世代論を、生駒大祐という人間が書く、ということに、
文章以上のものを受け取り得る。筆者のコンテクストだ。
この文章以上のものを受け取る意識そのものに、
受け手自身のコンテクストが、もう関わり始めている。
かまちよしろう氏の「そんな日」は、
「未言語状態のもの(未イラスト化状態のもの)」を、イラストにしたもの。
イラストと言葉の違いについては、稿を改め考察してみたいところである。
今回の「週俳5月の俳句を読む」は執筆者が六人いる。
もちろん内容は六人六様で、
だからこそ、筆者(読者)のコンテクストなるものが活きるのだろう。
野口裕氏の「林田紀音夫全句集拾読」も同様である。
●
心あるひとならだれしも、けっして自分自身の知性によって把握されたものを、言葉という脆弱な器に、ましてや取り替えもきかぬ状態に――とは、文字でもって書かれたものの状態に、ということだけれども――、あえて盛り込もうとはしないであろう。それでも、言葉しかないのだ。
「書簡集」(『プラトン全集 14』長坂公一・水野有庸訳、岩波書店、2006)
●
0 件のコメント:
コメントを投稿