やわらかな楼
小津夜景
ふだんよく聴く曲に、ジョン・ケージのサーティーン・ハーモニーズというのがあって、これは音があくびみたいに鳴ったり、あ、そういえば、と突然思い出したかのように動いたり、うーんと伸びをしたり、かと思えばふっと息をついたりと、流しっぱなしにするたび体がほぐれてゆく感じがして、妙に心地よい。
人に邪魔されることなく音がみずからあそんでいる光景をこっそり眺めている、そんな快感もある。
人が自然にさからおうとせず、そのありさまにそっと心を添わせるとき、自然は思いのままの姿を人にみせてくれる。たしかディネーセンの『アフリカの日々』に、広大なサバンナに棲むキリンの群れが上下に首を揺らし、その長い脚を折り曲げてゆっくりと原っぱを移動するさまを、あたかも毒の斑をまとったうつくしい百合族がみずから動いてゆくかのように高貴である、と記した個所があったと記憶するのだけれど、音楽もまた人から全く自由であるならば、まほろばを秘めた大気の中を、優雅で気まぐれな蜃気楼となって、きっと移ろうてゆくだろう。やわらかく、とてもやわらかく、空耳の楼を成しつつ。
あらかじめほろんでゐたるまほろばのどうしてほろぶことがあらうか / 小池純代
ぬえどりの消えて朝日のあたる家
目ぐすりのくすぐる空を酔読す
風死せる島にどこ吹く風のひと
蟻を踏むたび閂のはづれけり
ほにほにと動く道具やなつめやし
うつせみを写さうとして裏窓へ
たねのないぶだうの中の銀貨かな
鏡騒(かがみざゐ)あまたの耳を綴ぢあはす
金魚ひとつ処方されたし恋のあと
百合の骨つまめば砂となりしのみ
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