ピントのあわない話
小津夜景
或る時空が存在する、というとき、この「存在する」には生成(ドゥヴニール)と成就(クリスタリザシヨン)との両義が含まれている。
これは、わたしが「いまここ」を見逃せば空間は生成/変化しつづけ、見逃さなければつかのま成就/結晶化する、といった意味だ。
わたしはまだ結晶化を知らない。聞くところによるとそれは、時空という多面鏡に向きあいつつ、そこに自分がはっきり映し出されている(共鳴している)と感じうる状態のことらしい。逆に言えば、そう感じないときの時空とは安定した鏡ではなく不安定な水とおぼしき状態だということで、それならわたしもよく知っている。
結晶化した時空はこんぺいとうに似て、ほのかな棘に覆われている。日々流転しながら棘を育てているのである。
その棘は時空のつかのまの成就の際しか感覚できない。
棘をもつ以上、時空の結晶化とはその純粋化ではないのだろう。多分それは、純粋化ではなく世界化だ。
たわいない痛みのある、世界。
かつてある詩人は言った。われわれはかつて一度も、一日も、ひらきゆく花々をひろく迎え取る純粋な空間に向きあったことがない。われわれが向きあっているのはいつも世界だ、と。
ピンぼけになりすましたり夏の蝶
朴の花すぼめて時の間をつぶす
秒針の透かし彫られし白日傘
夕ばえの坩堝を指はあそびたる
五線譜に無音のリズムある蜥蜴
斑猫のことさら古書に塞がれて
かぎ針で編みまだ棘のないことば
ロードムービーグラジオラスの戛然と
廚部に虹の弁あり抜きませう
夏座敷しいんとしいんとぼるへす
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