読む男
小津夜景
前衛とは、また後衛とはなにか。
この問いに、ある人はこう答えたそうだ。
前衛であるというのは、死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるというのは、死んだものをまだ愛しているということである、と。
この答えを知って以来、わたしはことあるごとに前衛と後衛について思いをめぐらすようになった。そしてある日とうとう「本を読むとは、この前衛と後衛とを同時にやってのけることではないか」と考えるようになった。
読書の快楽とは、思い出に浸りつつ、いまだ見ぬ世界を歩くことだ。それは記憶を掘り返してはその中から非・記憶ばかりを拾い出すような、どこか奇妙な旅でもある。
ちなみに読むことは男にこそふさわしい。そう言いきれる理由は、今わたしが座っているカフェの端に、紙に目をぐっと近づけて、ぶあつい電話帳を読み耽っている男がいるから。男は別段狂っている風でもなく、グレン・グールドのように、活字を指で丹念に拾っている。たぶんあの男にとって未知の名前の羅列は、記憶と非・記憶とが重なり合う、とても眩しい宝島なのだろう。
ゆふさりのひかりのやうな電話帳たづさへ来たりモーツアルトは / 永井陽子
読む男ありけり今朝の小鳥くる
いちじくの籠をあふれて休館日
白秋のページの縁を切りおとす
天高き日の木製の手すりかな
あまでうすあまでうすとぞ豊の秋
隣室に律の調べをしつらへる
鰯雲やかまし村の迷ひ子に
扇置くやうにペーパーナイフ置く
鹿垣やいつもきのふの色をして
跡形もなきところより秋めけり
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