アルフレッド
福田若之
アルフレッドに捧げる。
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「アルフレッド」――自宅のトイレで無意識のうちにそうつぶやいたとき、僕は、それが古い友達の名前だと確信した。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
だが、アルフレッド? どんな友達だったのか、僕にはまったく思い出せない。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
本当に僕はアルフレッドと友達だったのだろうか。いや、たしかに友達だったのだ。アルフレッドの名を呼ぶたびに、僕の全身は、なんとも書きようのない郷愁に満たされたのだから。――そう、僕は何度かアルフレッドの名を呼んだのだった。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
アルフレッド。イギリス人、いやアメリカ人だろうか。けれど、小学校のときに同じクラスだったハーフの友達は別の名前だった。いや、アルフレッドはそもそも人でさえないのかもしれない。マンガのキャラクター、あるいはぬいぐるみの名前――それもありうる話だ。アルフレッドについての記憶は、なにひとつ頭に残っていない。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
人のことを忘れるとき、そのはじまりはいつも名前だった。名前を忘れ、出来事を忘れ、おそらく、最後に顔を忘れる。いや、そうではないかもしれない。より正確に記すなら、人のことを忘れはじめていることに気づくのが、いつでも、名前を思い出せなくなっていることに気づいたときだったということだ。おそらく、完全に忘れてしまえば、忘れたことさえ気づくことはないだろう。だから、わからない。どうして僕は、アルフレッドを名前で、それもよりによって名前だけで、覚えているのか。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
アルフレッド。この謎を刻んでおこう。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
それにしても、自宅のトイレというのはあまりにもフロイト的すぎはしないか。正直に書こう、僕は草稿の段階で一度、この出来事を町はずれの公衆便所で起こったというふうに脚色して語ろうとした。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
家のトイレで起こったことを町はずれの公衆便所で起こったこととして語ろうとすることは、それ自体、いかにも精神分析によって説明されそうなことだ。自宅のトイレは私的な場であるのに対し、町の公衆便所は公的な場だといえる。さらに、町はずれという言葉は、この町に外があることを示している。他者を示唆しているのだ。だから、このことは、おそらく、私的な出来事を書かれたものとして公的な場にさらけ出すことにともなう何かしらの抑圧として説明されるのだろう。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
けど、もし場所について嘘を書いたら、それが偽りの記憶を捏造し、僕はアルフレッドをいよいよ忘却の彼方へ葬ることになってしまうのではないか。そんな予感がして、僕は、自分が忘れないうちに、それをありのまま「家のトイレ」と書き記すことに決めたのだった。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
僕は人の名前をよく忘れる。一年も会わないと、親しかった友人を自分がどんなあだ名で呼んでいたのか、さっぱり思い出せないということがある。氏名を覚えていても、それをどう呼んでいたのか思い出せないのだ。そして、次に会うときにはもう名前を忘れている。
夕焼けの自治体に撒かれる音色
僕はもしかすると、アルフレッドをアルフレッドとは呼んでいなかったのかもしれない。アルフレッドは、本当は僕がかつて決してそうは呼ばなかった誰かだったのかもしれない。アルフレッドという名は、僕にその気があったならいまでも忘れずに覚えていられたはずのあらゆる友達の名前の代替物なのかもしれない。とにかく、アルフレッド、僕は君をもう忘れたくない。
この文章の中でアルフレッドのことが思い出されることはついにない。これは小説ではないのだから。ある夏の夕暮れに、僕は家のトイレで「アルフレッド」とつぶやき、それが僕の友達の名前であることを確信した。僕はそれを書いた。それだけのことだ。それだけしか書けない。
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