むしろ世界が
小津夜景
俳句とは、とても小さな空間らしい。
どのくらいの人がそう感じているのかは謎だ。でも「十七文字は広大で、めいいっぱい手足をひろげないと埋めることができません」という説はまだ聞いたことがない。
わたしにとって俳句はとても大きな空間だ。反語ではなく。ぼんやりしていると、ちっともことばが埋まらない。だからめいいっぱい手足をひろげる。広い、広い。いくらでもことばが入る。俳句のこの広さに比べれば、わたしには、あくびほどのことしか言うことがない。
俳句の苦しさとはなんなのだろう。ことばと格闘するとはどういうことだろう。ふだんのわたしは、ことばの好きなようになるのを待っているばかりだ。動物が草むらに寝床をこしらえその中に丸くおさまるように、ことばが十七音に勝手にまとまるのを眺めているだけ。
尾や耳が、少しはみだすその姿になごむ。
戦わないことが大切だという気持ちが、風となって、響きわたる。
俳句は苦しくない。わたしにはむしろ世界が息苦しい。そこには声が多すぎる。そこは、なにを言っているのかわからないつぶやきのような、傷もつ呼吸のような、らくがきのような、音の鳴りやまない磨り硝子だ。
朝霧や美貌の牛によぎられて
木天蓼の記憶の粉をゆるく吸ふ
水澄めるうすばかげらふ放浪記
露といふ御堂に棲まふものたちよ
天高きひと日を共に聴くフィガロ
糸瓜生る大人のための絵本かな
この世へと踵を返すきりぎりす
ひだまりの色なき風を化石とも
洋梨のいびつな重さ眠くなる
月の矢をいだきてまゐる通信使
0 件のコメント:
コメントを投稿