2015年9月26日土曜日

【みみず・ぶっくす 39】海がおしえてくれたこと 小津夜景

【みみず・ぶっくす 39】 
海がおしえてくれたこと

小津夜景







 これまでいろいろな海を見ました。
 近年親しいのはプロヴァンスの海とノルマンディーの海です。これらふたつの海は、おどろくほど対照的な印象を人に投げかけます。
 簡単に言うと、プロヴァンスの海は母に抱かれる感覚。一方ノルマンディーの海は母を亡くした感覚です。
 幼少の頃わたしはオホーツクの海に面した町に住んでいたので、人を拒絶する海のつめたさについては元々よく理解していました。とりわけ冬のオホーツクは辛く、あざらしと呼びあうように弧を描いて雪原を走るこがらしや、今やほとんど残っていないギリヤーク族やオロッコ族の習俗の痕跡に囲まれながら、厳しい失楽の風景を生きなくてはなりません。そんな環境でしたのに、ノルマンディーの海を見るまで Dépaysement(故郷喪失)とでも喩うべき〈風景と主体とのあいだの激しい歪み〉について、わたしは何も知りませんでした。
 考えてみれば、海がひとつの不在、母なるものの喪失を喚起することは少しも奇異ではありません。なぜなら人はそこから来たものの、もはやそこへ帰ることはないのですから。生まれた時から流浪を宿命づけられ、故郷に対してさえ他者でしかありえない存在者。それが人です。
 この摂理を学んだわたしは、ノルマンディーに住んでいるあいだも毎夕砂浜を散歩し、目の前にひろがる海の無慈悲——この土地の美術館を巡って分かったのは、ノルマンディー人にとって海というモチーフがいつも漂流や難破と結びついてきた歴史です——を眺めながら、ノスタルジーとノストフォビアといった、故郷をめぐる相反する感覚に耽りつづけました。
 故郷といえば、たしかハイデガーが、存在者が存在を忘れて俗なる日常に埋没することを故郷喪失性と呼んでいたように思います。彼の言う故郷は、永遠へのノスタルジーと結びつく聖なる場所。片やわたしは、さまざまな海を巡る中、人には故郷などはじめから存在せず、ゆえに流浪する存在者の傷はいかなる神話的回帰によっても癒されない、とあたりまえに信じている——。
 しかしそれでも、ふたたび海に立ち、波とみまがう白いすじをもつ秋空がその柔らかい光の作用で深いような遠いような海の紺碧を引き出すのを目にすれば、きっとわたしは(歌よその天与のうつは差しのべて盛らなむ秋の碧のかぎりを)といった大好きな一行を思い浮かべるでしょう。そして「帰還なき流浪と故郷への回帰は、同じくらい感傷的にみえる。そうではなく、もとより人は流れるばかりの浮き島で、その様子はまるでこの歌のように軽やかなのではないかしら?」などと恐らく空想するのです。
 秋の爽やかさと相まってか、目下こうした空想が、わたしの気分に一番しっくりきています。
 以上、海がわたしに教えてくれたことでした。


まほろばに布のかぶさる秋の象
あさがほのかたちで空を支へあふ
スポンジの水のむ鵙の古馴染み
秋をあなたは折り曲げてゆく膜か
椋鳥の切手を離すピンセット
セスナ機の耳に吸はるる芒が穂
こほろぎを連れて人名録ひらく
エンジンの香ほのか色のない風に
砂嵐恋ふる夜半ありカンナにも
小鳥くる海をほろぼす聖母かな

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