2015年9月9日水曜日

●水曜日の一句〔原田達夫〕関悦史


関悦史









こけし談義や土産物屋の箱火鉢  原田達夫


一見いかにも俳句くさい、鄙びた、懐かしげなモチーフばかりで一句が埋まっていて、結社誌や新聞の投句欄にいくらでも載っていそうなのだが、そうした句とはどこかではっきりと一線を画している。そしてそれは、技術的な巧さに還元されるようなことでもない。

そこで引っかかってくるのが、わざわざ字余りにして上五に割り込ませ、「や」まで付けた「談義」の一語である。

この一語、単に一人で土産物屋にいるわけではなく、誰かと親しげに話しているということがわかるというだけではない(いや、一人でこけしを見ている句にしてしまったら、それこそ投句欄にひしめく見どころのない句に一変するはずなので、それはそれで重要ではあるのだが)。

句意はさして変わらなくとも、「こけしを語る」などであってはならないのである。「ダンギ」なる音の粘りと重さが、角ばった「箱火鉢」や、持ち重りのする「こけし」、雑然たる「土産物屋」と相俟って、一句に素朴な充実感をもたらしているからだ。物の量感と、手に馴染む質感、そしてそれらが使い込まれてきた歳月、話す人らの心の弾みといったものの相互浸透が、期せずして掬い取られているという風情である。

この句が句集の表題作なのだが、あとがきを見ると《平成二十年に九十六歳の母と連れ立って、二人だけの初めての旅をした。その時の福島・土湯温泉での作》だという。句の厚みの裏に潜んでいたのが「母」であったと種を明かされればそうかとも思うが、知らずとも句の充実感に影響はない。

「母」については《何を言うても笑む母の花の昼》という、これも味わい深い句がともに収録されている。

両句とも、人と物の境が次第に曖昧になっていくようなゆるやかな時間と、その中での情動のありようを、句中に手応えのある形で湛えることに成功しているのではないか。


句集『箱火鉢』(2015.8 ウエップ)所収。

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