名は痕跡である
小津夜景
折あるごとに、人々が署名 signature する姿を見ていて、ある日ふとこう思いました「この国の署名というのは、名の文字化でも意匠化でもなく、ただ紙に傷をつけることであって、だからいつも判読不可能なんだ」と。
この国の人の署名は、ただのラクガキにしか見えません。まるで文字で文字を掻き消したかのような、自分自身を見せ消ちしたかのような、いまや跡形もなき存在となったかのような、染みそっくりなのです。
ふしぎなのは、音声にも意味にも決して結びつかない、ただ心に描き写すしかないその染みを見つめていると、なぜか染みから本人がよみがえる感覚に襲われること。
名は痕跡です。
おそらくそれは人が生きている、或いはいたことの痕跡です。名の本質は字ではなく、とはいえ胸に描かれ刻まれるといった書記運動から決してのがれえないという点でただの音とも違う。それは存在論的な実体に関係するというよりも、むしろ時間と空間の生起そのものであり、またその生起こそが存在への触手をかきたてる鍵でもあります。
こういう訳で署名もまた、ここにわたしがゐる、そこにあなたがゐる、といった在り方に近いのかもしれません。
名を呼ぶ。知ることのない名を。
声を使わず。胸に傷をつけて。
ストロボのそぼ降る遠さ秋となり
白き萩かほに零るるポラロイド
亡びゆく書体のラベル地虫鳴く
ひぐらしを浴びながらわが黙読す
かささぎが引つ掻く空の釉薬
そらりすの光を曲げてこすもすは
茶をにごす囮のこゑの高まりに
ブロンズの鈴の散らばる芒かな
月光に磨かれし背は地下室へ
たましひに桃のあつまる待合所
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