媒体としての身体
福田若之
ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』のスティーブン・ディーダラス曰く:
待てよ。五か月だぞ。分子は全部入れ替わる。僕はもはや別の僕だ。別の僕がポンドを受け取ったんだ。→スティーブンの身体は、代謝し、記憶し、貸借する。
そりゃそう。
でも、常に変化し続けている諸形相のもとにあるのだから、僕は、エンテレケイアは、諸形相の形相は、記憶によって僕なのだ。
罪を犯し、祈り、そして精進した僕。
コンミーが鞭打ちから救った子ども。
僕、僕そして僕。僕。
A.E.I.O.U.〔「A.E.、僕はあなたに借りがあります」の意。「A.E.」は、この場に同席しているジョージ・ウィリアム・ラッセルの筆名〕
- 代謝。すなわち、身体を構成する分子の入れ替わり。ことによると、知覚などよりもずっと基本的な身体の性質かもしれない。身体における一種の忘却、恒常的な変化としての忘却。
- 記憶。代謝に(見かけ上は)さからい、自己同一性を保証するもの。代謝を忘却の一種と捉えて記憶に対置することもできるし、遺伝子などを身体の記憶の一種と捉え、それらを代謝に対置することもできる。だが、おそらく、記憶は代謝の過程でしか生じない(「罪を犯し、祈り、そして精進した僕」)。
- 貸借。他者とのやりとりの模式的な形態。貸借は借用書によって証し立てられる→借用書〔I.O.U〕=記憶。そして、仮に金銭が出入りすることをある種の代謝だとみなすのであれば→貸借を可能にするもの=代謝。∴貸借=記憶と代謝が表裏一体であることの現れ。
2015/8/25
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