世界萌え?
福田若之
泣いたって世界世界のショウタイム僕は、一方では、「わかめ」から「世界」へのこの置き換えには何らかの価値があるように思い、けれど、他方ではそれをおぞましいとも感じた。その理由をずっと説明できなかったのだけれど、ひとつの文章がヒントをくれた。
夢忘れ老いぼれ世界走るよホイ
天皇家ならびにテロテロする世界
暴れるな夜着から世界出てしまう
なんぴとも世界涅槃を想像す
秋雨やふえる世界とコンドーム
テンガロンハットも似合う世界かな
警告にしずまれ世界空っ風
なんでやねんうち新宿の世界やし
泣いたから訊けば世界にゃ顔がない
(榊陽子「ふるえるわかめ(なな子、社長ほか代用可)」、ただし本文中の「わかめ」に「世界」を代用した)
「萌えに郷愁はありません。萌える人々には、その対象が歴史的に担ってきた意味や世界観への関心がないのです。あくまで目前の要素と設定にのみ注目し、自分勝手な感情移入を展開すること。これが萌えです。したがって萌えは郷愁や倒錯と異なり、いくらでもその対象をとっかえひっかえすることができます。正味のところ、萌えが対象愛でなく自己愛の日替わり定食である、と言いうるのはこうした所以です。まとめるとですね、萌えとは世界を構成するデータベースを個別に消費しつつ、そのデータを構成している世界それ自体には無関心をよそおう感性、となります」だから、実験の結果はふたつにひとつだったのだ。世界をまるごと置き換え可能な対象としてしまうことで、世界に萌えながら、それが歴史的に担ってきた意味の全体に背をむけることになるか、それとも、世界に対する関心によって代用可能な無数の対象からなるデータベースを内側から崩壊させ、萌えを克服することになるか。世界と向き合うことができるか、できないか。
(小津夜景「【みみず・ぶっくす 55】萌えと俳味定食」)
けれど、なんということだろう。
世界には、顔がない。
これをどう捉えたらよいのだろう。僕はのっぺらぼうである世界にまさに直面しているのか、それとも、見るふりをして本当は目を背けてしまっているからその顔が見えないだけなのか。僕は結局、困惑している。「テロテロする世界」というフレーズに、繰りかえされるテロリズムのことを思いながら。
2016/1/24
1 件のコメント:
うーんこれぞセカイ系?
たとえば世界を憲兵に入れかえてみると、白泉の怖さがわかりますね。
世界は結局顔がなく、何かを言っているようで何も言っていない。
何か言ったかのような自己充足だけがそこにある。
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