郵便あれこれ
小津夜景
郵便と聞いてすぐさま思い出すことは三つ。
郵便と聞いてすぐさま思い出すことは三つ。
まずジャック・デリダの『絵葉書』。これは私のデリダ初体験本で、その衝撃といったらもう。ここまで自分らしくしちゃっていいの? 恥ずかしくないの? ううん、もちろん恥ずかしいよね。でも勇気を出して書いたんだよね。うんわかる。わかるよ。私もあなたの本に勇気を出して飛び込むよ。だって、だって、だってもう好きになっちゃったんだもん! まだ出だししか読んでないけど!といった感じ。
七〇年代のデリダの文章はとにかく度胸があって、冷静で、しかも情熱的。読んでいると相当気恥ずかしい。でも思っていることをなんとしても形にしたいといった気迫でぐんぐん挑んでくる彼の、その勇敢さや清潔さがとても印象的で、思わず、だいじょうぶ、だいじょうぶよ、と生身の本人に手をさしのべたくなってしまうんです(なに言ってんだか)。
おすすめは「真実の配達人」という一章。そこでデリダは「手紙は宛先に届く」というラカンのテーゼを批判し、ラカンの差し出し人→受け取り人という図式は超越論的シニフィアンの自己回帰というトリックにすぎず、世界は転移関係からの不断なるズレによって構成されている、ということを示してゆきます。実はこの二人の相違に対するジジェクの論考も面白くって、ただジジェクという人は少々采配者根性があるというか、まあ郵便配達みたいな優雅な作業と何のかんけいもない人物ではありましょう。
二つ目はジャック・タチの『のんき大将脱線の巻』。良い邦題です。これは手紙をアメリカ式に素早く配ろうと思い立った郵便夫が村中を駆け回ってみたけれど全然うまくいかない、といった内容のフランス映画で、原題は祝祭日というんですが、スラップスティックなのにおっとりして、うーん、超俗とはこういうことだなあ。配達を巡っての脱線につぐ脱線は、それが手紙であるだけにいっそう目が離せません。
それにしても人って届かない手紙のエピソードが大好きですよね。配送の手違いで何十年か後に届いた手紙の話なんかも、冷静にかんがえれば事件でもなんでもないのに何かの運命を感じてみたりして。で、たぶんその理由は私たちが「かならずや手紙は届く」という信仰を、いくぶんねじれた形で胸に抱いているからだと思うんです。文字(lettre)というのが、伝達のさなか多義性によってその意図をほどかれ、ばらばらになり、手紙(lettre)という理念から遠くはぐれてしまうものであるからこその儚い願望、というか。
三つ目は、差し出された手紙と受け取られた手紙とのあいだに存在する時空のこと。この時空を超越論的ブラックボックスとしてではなく、永遠のエアポケットのような、日だまりの記憶喪失のような、プンクトゥムめいた明るい場所として夢想するのが長年のお気に入りです。色褪せた写真を眺めるような心持ちで風景を眺めつつ、ああ、届くはずだった手紙がこんなところで居眠りしてる!と、心の中で叫んでみたりして。つまり、私にとって三つ目の郵便は、この歌。
冬陽あびて世界ほろぼすひとことを配りわすれた郵便車たち / 荻原裕幸
嵩うすき手紙うつくし冬に入る
手に落ちた手紙がふいにまた飛んで誰も引き取れないたましいがある
宛先にしずかに舌のしぐれかな
ゼラチンに雨の匂いを包むのと同じであります。お見せしましょう。
ふくろうの不在通知はなぜ海へ
どこから来たか知らない町の回転木馬。私にとって、住みたい森。
父というダッフルコートを夢に見る
風だけが吹く日々と知りももんがはエアログラムを書きにゆくのよ
雪よあなたの耳から下がハイデガー
届かない手紙の束を忘れない 愛の死ぬ心臓部はここですか
ロッキングチェアに冬蝶とまりけり
小春日の猫をあつめて光速でタイプミスだらけの世界を創った
ポストマンにビルの香りのして凩
あかねさすペーパーナイフ冬に入るすべての別離のログをひらいて
我らみなイル・ポスティーニョ枯野かな
月に照らされて、あかるい。少しだけ冷たい卵の兵士みたいに。
文字を打ち霜の柱はこわれけり
スパイラル・パスタを茹でる もういちど手紙を書いてそっと手放す
デスマスク兆しくるかの冬を老ゆ
いいえ一等書記官の死について語っているのではないのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿