雨が降ると自転車のことを考える
福田若之
雨が降ると自転車のことを考える。∵乗れないからだ。
車は移動速度は徒歩よりも格段に速いが、一人の人間を同じ距離だけ運ぶのに、より多くのエネルギーを消費する。それに対して、自転車は移動速度が徒歩よりも速い上に、エネルギー効率もよい。
これは、僕らが歩くよりも自転車に乗っての移動に適した肉体を持っているということを意味している。これはおそらく、樹上生活をしていた祖先の名残である。僕らの肉体は、おそらくまだ、地に足をつけて移動するのに最良の形態にまでは進化していない。→車輪がいかに偉大な発明だったかを証明するのは、なによりも自転車だ。
だが、車輪が重要であるのは自転車を道具と見なす場合だけだろう。僕らは自転車を単なる道具ではなく親愛や友情の対象とさえ見なしうる。それには自転車が人間的、あるいは少なくとも生物的であると見なされていなければならないだろう。自転車のこうした性質はどこから来るのか? →おそらくベルである。ベルは自転車に声を与えるのだ。自転車のベルは、声と生命の経験的に分かちがたい結びつきを利用して人の心に働きかけるのである。
(とはいえ、実際には、自転車のベルが鳴らされることはほとんどない。それは社会的には騒がしいものと見なされていて、しばしば通行人を不快にするからだ。それでも、自転車についているベルというのは、鳴らさないかぎりにおいては愛らしいものである。それに、段差などを下りるときには、それが振動のせいで小さく鳴ってしまうことがあり、そうしたとき、自転車はすこぶる人間的であるように思われる)
(ときたま、小さな子どもがベルを無意味に鳴らして走っているのを見かけることがある。社会的な抑圧がなければ、人はあんな風に自転車と会話をしたいと無意識のうちに思っているのではないか?)
もうひとつ、自転車に声を与えうる部品:ブレーキ。ブレーキが錆びると、自転車は下り坂のたびに悲鳴を上げるようになる。
反証:ブレーキがちゃんと整備された、ベルのない自転車を愛する人たちもいる。→こうした人たちにとって、自転車は、おそらくそのフォルムと用途によって、馬の隠喩なのである。
しかしながら、自転車の部品のなかで、もっとも神話的であるのはライトである。前輪との摩擦によってエネルギーを得る自転車のライトは、遠い昔の生活における火起こしの苦労と喜びに通じている。肉体の運動によって、夜を照らす光を得ること。その光は僕らから生まれる。光を自力で作り出すことの喜び。
2015/10/1
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