2015年11月4日水曜日

●水曜日の一句〔大高翔〕関悦史


関悦史









未来都市かすみのなかにまた光る  大高翔


肝となるのは「また」なのだろう。一度光っただけではなく、明滅をくり返している。

それと「かすみ」の湿度が合わさることにより、都市そのものが無機的なまま生命感を帯びるのだ。都市の住人の姿はさしあたり見えていない。実際、「未来都市」で画像検索をかけると、出てくるのはメタリックな質感の際立つCG画像ばかりである。

「未来都市」は、すでに眼前に実現しているのであれば「未来的な都市」というだけのことだが、「的」を抜くことで、視点人物が何やら未来にトリップしているような、あるいは時間の流れの外に位置しているような浮遊感、眩惑感を帯びることとなる。

現実に夜の大都市を見渡すときにもそうした浮遊感、眩惑感は起こるので、それをレトリック上「未来」と言いきった形だが、「未来」を実見するという矛盾が句に孕まれることにより、都市の生成と、さらに遙かな未来におけるその消滅の可能性までもが抒情のなかに言いとめられたのである。

そう、句はあからさまに抒情している。都市の無機的な美を描いているとはいえ、その根底にあるのは非人間的なものへの畏怖や死の恐怖を根底に沈めた崇高さといったものではない。小説でいえばJ・G・バラードよりは日野啓三に近いものだ。この視点人物は、心地よく、心情的によりそうように「未来都市」と一時をともにし、無機的なものたちの清潔な冷たさ(それも春の「かすみ」のなかなので耐えられないほどのものではない)に身の内を照らされつつ、やがてそこを無事に離れるだろう。まちがっても破滅の愉楽へとつっこんでいくことはない。

無機的美観への観光という体験を穏当な句にすることによってあらわれたのは、「未来」が希望とも絶望ともさしあたり無縁な、漠然と儚げなものとしてあるという、一抹の寄る辺なさを含みつつも、比較的安定した生活感情であった。


句集『帰帆』(2015.10 角川書店)所収。

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