俳句:短命な物語
福田若之
もし物語というものが本質的に自らを可能な限り長引かせようとする性質(=自己保存本能)をもつとするならば、俳句として成立するのはそもそも短命な物語だということになるだろう。
たしかに、当てはまる例は数多くある。思いつくままにいくつか挙げると――
向日葵が好きで狂ひて死にし画家 高濱虚子
生涯にまはり灯籠の句一つ 高野素十
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
金魚玉とり落しなば鋪道の花 波多野爽波
海に出て木枯帰るところなし 山口誓子
いなびかり北よりすれば北を見る 橋本多佳子
湯豆腐やいのちの果てのうすあかり 久保田万太郎
などなど。これらの例の共通点:エントロピーが限界まで増大したように思われるということ(ひとつの閉じた系があるのだ)。
これらとは別の、特殊な例――
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女
草二本だけ生えてゐる 時間 富沢赤黄男
分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火
これらの句においては、語られていることの限りなさが見いだされることによって、もはや新たに語るべきことがなくなるのである。
だが、俳句のなかには、ときに、物語の突然死とでも呼びたくなるものが見いだされる――
徐々に徐々に月下の俘虜として進む 平畑静塔
死にたれば人来て大根煮きはじむ 下村槐太
少年や六十年後の春の如し 永田耕衣
あるいは、
月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵 高柳重信
なぜ、ここで終わるのか:なぜ、これらの言葉はここでとどまらなければならなかったのか?
それを説明することができない(俳句にとどめようという作者の意識を抜きにしては):どの句も、何かを宙吊りにしたまま終わってしまう。だが、この宙吊りこそがこれらの句の魅力であることは疑いない。
2015/9/9
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