三島ゆかりさんのコメントに答えて
福田若之
「もう一度、「発句」と言いはじめるために」にコメントをいただきました。
三島ゆかり さんのコメント...
- 《「発句」という語は、「俳句」よりも、一句になにか別のものが連なっていくという事態に対して寛容である。》というご意見、そうなのでしょうか。
私は捌き人として脇を付けることが多いのですが、発句って、顔としてしゃんとしてないといけない、俳句よりもずっと不自由な役割のものだとずっと思っていました。切れ字という鎧を身にまとい、脇以下から切れて矢面に立つ発句。
たまに聞く「最近の俳句には立句の風格がない」みたいな話、それはしゃんとした発句への追慕でしょう?
連句の作り手としての実感をともなった、示唆に富むコメント。 ありがとうございます。
まず、「一句独立」と「切れ」の区別について。
僕が「なにか別のものが連なっていく」と書いたのは、まさしく「脇以下」のことであって、それによって言いたかったのは、発句は俳句よりも「切れ」が重視されないということではなく、俳句ほど「一句独立」を志向していないということです。
たしかに、連句についていえば、発句は「切れ」を重視します。けれど、「脇以下」が付くことを隠そうとはしませんよね。その点で、「一句独立」という理念からは、さしあたり自由であるように思われます。
僕としては、「切れ」は、「なにか別のものが連なっていく」かどうかではなく、連なっていく「なにか別のもの」 が、どういう意味で「別のもの」なのかに関わる概念だと考えています。
いわゆる「俳句」は(あくまで理念的には)「脇以下」が付くということをそもそも拒んでいるという気がします。たとえば、「七七が付く」というのは、「俳句」にとっては褒め言葉ではないですよね(これにはもちろん短歌との差別化の問題がからんでいるので、ちょっとややこしいのですが。細かいことは割愛します)。
「「最近の俳句には立句の風格がない」みたいな話」はたしかにあるし、それはたしかに「しゃんとした発句への追慕」だと思います。けれど、それはやはり「一句独立」よりはむしろ「切れ」にかかわることではないでしょうか。
いただいたコメントにはもうひとつ言外に重要な問題提起があります(そう読みました)。要するに、もし、これまで「俳句」と呼ばれてきたものを「発句」と言うことにするとしたら、それは現代の連歌・連句における「発句」とどう関わるのかということです。
簡単なことで、現代の連歌・連句における発句は「発句」という語の従来の意味(のひとつ)であって、それは揺るぎません。僕が書いているのは、「発句」という語にもうひとつの意味を与えたいということです。
「俳句」にあまりなじみのない人の多くは、「俳句」と聞くと「わび・さび」を連想します。その点、「発句」という語にはおそらくそれほど先入観がないように思います。歴史的に見ても、俳諧以前の連歌の第一句も「発句」には違いありませんから、「発句」という語を、「わび・さび」と必ずしも関係ない、季語を含んだ五七五の(そして、そこから発展した無季かつ/または自由律の)詩形式を指す語として用いることには、いくらか正当性があるはずです。
僕にとって肝心に思われるのは、「俳句」という言葉に「俳」という字が含まれていることが、「俳句」と呼ばれているものの全体像を指し示すのに今やふさわしくないように思われるということ、そして、僕らがこれまで「俳諧の発句」を「俳句」として読んできたように、今度は「俳句」を「発句」(「俳諧の」が付くとは限らないという意味での、ただの「発句」)として読み直す可能性を考えることです。
2015/11/23
2 件のコメント:
丁寧なお返事をありがとうございます。
別に論争をしかけたりするつもりは微塵もないのですが、もう少し言わせて下さい。
『精選版 日本国語大辞典』(小学館)から部分的に引用します。
--------------------------------------------------
ほっく【発句】連歌や俳諧の連句で、最初の五・七・五の十七音からなる句。切字・季語を含み、格調の上で付句とは違った完結性を必要とした。後に俳句としてこれが独立して詠まれるようになってからは、連句ではそれと区別して立句(たてく)という。
--------------------------------------------------
もちろん連句ですから挨拶や即興の要素はあるわけですが、発句の発句たる所以のものは「付句とは違った完結性」なのだと私は認識しています。福田さんが俳句に感じる「一句独立」とは、俳句が俳句と呼ばれる前に発句だったときから、存在理由として持っているキャラクターなのだと考えています。
むしろ「一句独立」から自由になりたいのであれば、「平句」宣言をされるのであれば、話は分かります。季語や切れ字によってすっかり整備されてしまった発句に比べれば、俳句の人にとって平句は、肥沃かどうかはさしおいて、いまなお広大な未開の原野です。
ついでに言うと、俳句の二物衝撃理論が整備されてから、「切れ」というものの意味が変質してしまったのかも知れません。
しばしば「ららららやりりりりりりりるるるるる」みたいな句型において、「らららら」と「りりりりりりりるるるるる」は切れているとか付いているとか言われるわけですが、このように一句の中の意味の分断を語る文脈で切れ字を理解しようとすると、句尾の「かな」や「けり」は何と切れているのだ、ということになってしまいます。
こんどは『連句・俳句季語辞典 十七季』(三省堂)から部分的に引用します。
--------------------------------------------------
とにかく発句は、一巻興行のその季節にかなった季語を持ち、切字(や・かな・けり・らんなどの修辞的に言い切る語)が必要である。それはその一句が詩情として独立した想と形とをもっていることが求められるからである。
--------------------------------------------------
先の引用で「付句とは違った完結性」と表現され、後の引用で「詩情として独立した想と形」と表現されているものこそ、切れ字によって脇以下から切れている、「発句」というもののありようなのです。
「発句」は発句なりにそう呼ばれることですでに歴史を背負っています。そして、かつて「発句」と呼ばれた「俳句」は、発句から受け継がれた黒歴史と、あらたな「俳句」なりの苦難を背負っています。私たちに必要なことは、なにかを呼び直して気分を一新することではなく、名前のないなにかをほんとうに始めることなのかも知れません。
こちらこそ、ふたたびコメントいただきありがとうございます。
僕のほうも論争するつもりはありませんのでご安心ください。
実際、ここまでくれば、あとはこれらの語をそれぞれがどういう意味で使うかの問題だと思います。僕としては、既存の言葉の意味をずらして用いる自由はある程度確保しておきたいところです。それは言葉でものを考えるときにはしばしば必要とされる自由だと思います。
それとは別に、もうひとつ書いておきたいことがあります。どうやら多くの方が一連の文章を何らかの「宣言」として読んでくださっているようなのですが、書き手としては何らかの「宣言」として書いたつもりは全くありませんでした。これらは、さしあたり僕自身にとっては、「発句」という言葉をめぐる極私的な夢想を記したものにすぎません。
そもそものきっかけは、たとえばエズラ・パウンドが荒木田守武の句を"haiku"ではなく"hokku"として語っていることや、あるいは永井荷風の〈白魚に発句よみたき心かな〉が「俳句」ではなく「発句」であることになんとなく心惹かれるところがあって、いま一度、自分でも「発句」という言葉を使ってみたいとさえ思う、けど、そもそもどうして僕は「発句」という言葉にいまこうして心惹かれるのか、要するに、「発句」という言葉は僕にとってどんな価値を持っているのか、それを整理して示しておきたい、ということでした。「もう一度、「発句」と言いはじめること」は僕にとっては手段ではなく、あくまでも目的です(そのことは「もう一度、「発句」と言いはじめるために」というタイトルにはっきり表れています)。
そんな次第ですから、僕の書きたかったことは、「発句」という言葉が漠然と喚起するイメージ――この言葉、とりわけその「発」という文字は、書き継ぐことへと開かれていながら同時に一句として存在する何らかの電撃的な書き出しを思わせるものであって、しかも「俳句」という言葉にまとわりついた様々なステレオタイプからの自由を保障してくれます――が、いまさらながら、僕にとって、とても魅力的であるということに尽きます。
コメントを投稿