なぜ、もう一度、「発句」と言いはじめることを考えるのか
福田若之
»承前
もちろん、「発句」という語にそれなりの歴史的文脈があるのは承知している;「俳句」という言葉によって、ようやく、僕らがそうした「発句」から抜け出たところにある自由を確立することができたということも。
俳諧の発句を縮めて「俳句」である。それがさしあたり季語と切れ字を含む独立した五七五の形式を指す言葉として定着したのは、発句に自立的な価値を見出したのが俳諧の連歌の書き手だったから、というだけではないだろうか。
「俳諧味」と人が呼ぶもの: 軽妙さ、風狂、滑稽、おかしみ、などなど。 → これらはこれらで魅力的ではある(それを否定するつもりはない)。けれど、これらは別に、必要なものでもなければ充分なものでもないのではないだろうか:「俳諧味」に重きを置くのは、「発句」の数ある魅力的なありかたの一つにすぎないのではないだろうか。
「俳句」という言い方には一つの価値判断がすでに織り込まれている。そう考えると、バルバロイになってしまうかもという懸念は当然あるけれど、あえて「発句」と言いはじめてみたいという気持ちが湧いてくる;そのほうが、なんだか自由になれる気がする。
2015/11/4
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