愚直なさえずり
小津夜景
誰の目を引くこともなく凡庸に繰り返される紋切り型の詩句。ひっそりと心ひかれつつ、そんな詩句を眺める。そうしているうちに、だんだんと紋切り型の詩句というものが、言葉ではどこにもゆけないこと、結局この場所に戻らざるを得ないことを確認するための、とても入念な戯れのような気がしてくる。
ひとはあの場所を忘れないと思いつつかならずそれを忘れ、それゆえ繰り返しそれを思い出す。つまり「ほととぎすそのかみ山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ/式子内親王」と言いながら実際は「梅を見て梅をわすれてもう一度梅を見るまで忘れてをりぬ/小池純代」ということらしい。
しかも思い出すのはかつて何かに恋していた記憶であり肝心のあの場所自体ではない。むしろあの場所はいっそう儚い。紀貫之が「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞさびしき」と記したように。そんなさなか紋切り型の詩句に出くわすと、わたしにはそれが、もはやこの世界になにも期待していないことのとても愚直なさえずりに思えてくるのだ。
いま季節は春でわたしはベランダに来る鳥たちの声を聞いている。聞きながら「花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍置け/源頼政」と文字でつづり、それから、ついこの間まで私たちに可能な伝達手段で一番速かったのは馬だった、と想う。そうした時代、ひとはどんなにか鳥にあこがれただろう。鳥は空間はおろか時間さえ軽々と超えるそうだ。だがどちらへ向かって? それはたぶん、
どうしても見えぬ雲雀が鳴いてをり / 山口青邨
マドレーヌいただく春の臥所かな
なかんづく押入れ愛す雛あられ
沈黙の春やも硯きれいにす
回送を待つ桃の日の代書人
クレソンの束を空ごと贈られし
みつばちの羽音は時をふれまはる
力学の本閉ぢ風の吹く古巣
翅割つてわれは霾ることばかな
桃の下そぞろに詩句をそらんずる
青き踏む地上最後の音楽家
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