ヘヴンリー・タッチ
小津夜景
あまり言葉が好きではない。むしろ訝しんでいる。
でもこれが言葉でなく文字となると話は別だ。文字から意味が現れたり消えたりする光景というのはなぜああも感動的なのか。なかでも意味のわからない文字の美しさ。そんな字面を見つめたり、なぞったり、小脇に挟んだりするあの快楽といったら!
十代の頃、而立書房という読み方不明の出版社から出ていたスリュサレヴァ『現代言語学とソシュール理論』という本を偶然ひらき、そのあまりのわからなさに瞬息で魂を奪われたことがある。もういちど端から端まで見返してみたがやはり何もわからず、それが日本語なのかどうかさえ謎のまま思わずふらふらと買い、犬が骨を掘り返しては埋めるみたいに本棚からその本を出してはしまう日々をそれから十年ほど過ごしていた。
西洋の文字は形(フィギュール)で、砂のように粒だち、見つめているとサンド・ノイズが字面から聴こえてくる。コード進行を追う感覚でそのざらつきの微妙な変化を手さぐりで追ってゆくと、突如つかのまの「読みの中心」が構造化される奇跡と出くわす。あれがたまらない。
片や日本の文字は線(リーニュ)で、波のように揺らめき、どこか一点を引っぱればするりとほどけて別の余波へと化けてしまう。そんな水面で、中心のない浮遊感に身をまかせているときの、自分自身までが解きほぐれるあの感覚もふしぎだ。
中心のない浮遊感といえば「カインド・オブ・ブルー」。ビル・エヴァンスはこのアルバムを書道のような旋律と説明したが、夜しかり水しかり、ブルーという抽象概念にもかなり大切な恍惚への糸口が潜んでいそう。とはいえそれはまた別の話。
別人に布をかぶせる春まつり
早蕨にwhyの文字化けまばゆかり
ものはなのもつれを空に口走る
椿餅食べてほんのり伏字かな
北開くしかばねかんむりの家で
春の扉にくさび形文字を彫る
鳥影がぎやうにんべんとなる春壁
滑りだす虻は光のシンバルを
しやぼん玉ことばに触れて失明す
棲みわびし風を古巣として僕は
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