あたらしいということ
福田若之
青くなり、やがて白んでいく明け方の空を眺めながら、「あたらしい」とは、単純に、この感じのことをいうのではないかと思う。
となると、あたらしさは毎日感じうるものなのであって、未曾有のことがらに対して抱かれる何らかの感じのことではないということになる。
日々繰りかえされるあかつきが、それにもかかわらず常にあたらしいのは、あかつきというものがかつてなかったからではない。それは、繰りかえされるあかつきのうちで、このあかつきはかつてないなにかであるということを感じるからだ。そして、それはこれからもない。二度とない。あかつきは、つねに、このあかつき、という感じを否応なしに抱かせる。そして、その感じを僕はあたらしさとして感じてきたのだった。
あたらしいとは、時間のなかでのかけがえのなさを感じさせることをいうのだろう。このかけがえのなさはあまりにもありふれているから、僕らの感覚は麻痺しがちだ。かけがえのないものはありふれているが、かけがえのなさを感じさせるものは多くない。あるいは、かけがえのないものはありふれているが、僕らがそのかけがえのなさを感じとることには困難がつきまとっている。だからこそ、言葉が、誰かに、あたらしいものとして届くためには、その困難がなんらかのかたちで乗り越えられなければならないのだろう。
2016/1/31
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