「忘れちゃえ」の句についてのメモ
福田若之
忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 池田澄子
思うに、あやまちを犯さないことは、過去のあやまちを忘れないこととはまた別のことだ。僕たちは、第二次世界大戦の記憶を持たなかったとしても、戦争を拒みうる;そのとき僕たちが拒むのは過去の戦争ではなく、今日と未来の戦争にほかならない;僕たちが抗うのは、つねに、今日においてでしかない。
∴もし、過去が僕たちを苛むことによって、僕たちが今日の生と向き合うことがもはや不可能に感じられるときには、トラウマからの解放を希求することが許されていいはずだ。それは、場合によっては、今日において生きて抗うことのために、むしろ必要なことでさえありうる。
そのとき、僕たちは、もはや意識の上では、過去のあやまちを今後くりかえすことに抗うのではないだろう。僕たちは、今後のあやまちに抗うことを通じて、そのさらに未来におけるあやまちのくりかえしに抗うのだろう:《あやまちはくりかへします秋の暮》(三橋敏雄)を、未来において過去のあやまちがくりかえされることの不吉な予言として読むのではなく(過去のあやまちはすでになされてしまったのだから、この読みではあやまちのくりかえしをもはや回避することができないことになってしまう)、これからのあやまちこそが、もしなされてしまえば、さらにその後かぎりなくくりかえされるのだという警鐘として読むこと(この読みにおいては、ひとつのあやまちを回避することが、そのまま、その都度、かぎりない数のあやまちを回避することになる)。
2016/4/4
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