関悦史
ひらく雛菊だれのお使いか教えて 田島健一
「だれのお使いか教えて」という口語調が童話的なポエジーを生むが、そこに回収されきるには微妙にずれ出しているものが感じられ、何やら不審者のようでもある。「お使い」という言葉から相手が小さい子供(またはそれに類した存在)らしいとわかる上、問いかけの内容も少々変なのだ。
見知らぬ子供に外でいきなり声をかけるとなれば、例えば「どこへ行くの」といった問いかけの方が自然であり、「だれのお使い」なのかに関心が向いていることを思えば、この質問者に子供(またはそれに類した存在)そのものへの関心はおそらくない。
子供(またはそれに類した存在)などと変な書き方をしているのは、この問いかけの対象が普通の人の子供であるとは限らず、相手が「ひらく雛菊」であるからかもしれないからである。
俳句を読むときの習慣にしたがい、「ひらく雛菊」で切れると一度は取りたくなるのだが、わざわざ「ひらく」と付いているところがあやしい。開花という行為が、だれかのお使いを果たすための移行状態のようにも見えてくるからだ。
質問者がお使いの内容には関心を示していないことを思えば、その伝達内容は季語としての「雛菊」にふさわしく、春の訪れを告げるといった程度のことなのかもしれないし、さしあたりどうでもよいのだろう。
この場合むしろ目立ってくるのは開花する雛菊をメッセンジャーとして使役しうる何ものかが存在するということなのだが、この句においては、それは偉大な自然だとか造物主だとかいった重層的な厚みを持った方向には統合されそうにもなく、そのおかげで、質問者自身もいつまでも立ち位置や目的の曖昧な不審者という立場に宙吊りになり続けることとなる。
いや、宙吊りになるのは質問者だけではない。
ここまでの読み方は根こそぎ間違っていて、質問者ならぬ発話者が「だれのお使いか教えて」あげたおかげで「雛菊」がひらいたという倒置法的な読み方や、あるいは「ひらく雛菊」当人が変容の過程で自分の使命を忘れてしまい、他の誰かに「(私が)だれのお使いか教えて」と哀願していると読むことも、全く不可能とは言い切れないのである。
かくしてこの句から確かに言えることは、「ひらく雛菊」と「お使い」をめぐってある質問あるいは対話がなされ、その背後には誰かを「お使い」に出した何ものかが想定されているということだけとなって、それが誰なのか、またその誰かの存在がなぜ想定されたのかという謎は開かれたまま終わる。
もはや誰が不審者なのかすらわからない。明るく無邪気でフラットなものとして書かれた春そのもの、及びそのなかにいる誰もが、こうした稀薄で正体不明な不審者であるのかもしれない。
「オルガン」第5号(2016年5月)掲載。
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