像の比喩としての存在
福田若之
虹立ちて忽ち君の在る如し 高濱虚子
虹消えて忽ち君の無き如し
「虹」:像。「君」:存在。
像は立ち、消える。それは見えるか見えないかだ。
存在は在るか無いかだ。
虚子は、この二句において、像を存在の写しと捉えるのではなく、存在を像の比喩としている。
見えるか見えないかが在るか無いかを証し立てるというのではない:虚子の二句は、見えるものは在るとか、あるいは、存在については光学的な語彙で語りうるとかいうような、一切の視覚中心主義から区別される。虹について真に問いうるのは在るか無いかでは全くない。君について真に問いうるのは見えるか見えないかでは全くない。そして、虹が見えているということは、虹が在るということでは全くないし、虹が在るかのようだということでさえ全くない。虹は像にすぎず、像は在るかのようでさえありえない。在るかのようでありうるのは、像ではなく、ただ存在だけだ。像が立つとき、何かが在るかのようだとすれば、それは像ではなく存在なのである。存在は像と決して同一視されてはいない。存在が像によって導き出されることもない。存在と像との間にはいかなる因果関係もない。存在が在ろうが無かろうが、像は立ちうるし消えうる。それでも存在は像の比喩である。おそらく、存在は何らかの仕方で像に似ていると考えられているのだろう。
注意しなければならないのは、ここでは、像が存在の比喩なのではなく、存在が像の比喩であるということだ:像のほうが実態的で、存在のほうが仮想的であるということ。存在は、像という実態的なものから、在るかのようなものもしくは無いかのようなものとしてのみ、把握されている。このとき、存在はもはや在るか無いかではなく、在るかのようか無いかのようかでしかない。
虚子において、どこまでがそうなのだろうか。存在が、どこまでも、在るかのようか無いかのようかでしかないのだとすれば、たとえば、《襟巻の狐の貌は別に在り》の「在り」は、《怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜》の「嚙む」 と同じく隠喩でしかないことになるだろう。
2016/4/12
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