浅沼璞
着るものたゝむやどの舟待ち 西鶴(四句目)
埋れ木に取付く貝の名を尋ね 仝(五句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
着るものたゝむやどの舟待ち 西鶴(四句目)
埋れ木に取付く貝の名を尋ね 仝(五句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
五句目といえば、歌仙では月の座ですが、百韻の場合、七句目が定座になります。とはいえ発句が秋で、月を脇に引きあげていますから、初表ではもう詠む必要がありません。なのでここは雑となります。
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句意は「浜辺の埋れ木に付着する、その貝の名を尋ねる」といったところ。
貝といえば、脇の第1形態・鸚鵡杯くんはオウム貝からの連想でした。けれど最終形態・月馴れさんは「貝」のイメージをとどめていませんので、去嫌の規定にはさわらないでしょう。
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「日和待ち」とは波風がおさまるのを待つこと。前句の「舟待ち」の原因をあかした自註なわけです。
つれづれなるままに浜辺へ繰りだした乗客たちは、耳なれないご当地ソングを聞き覚え、見なれない貝殻の、入江の流木にくっ付いたその名を、案内人に問うという趣向。
句の「埋れ木」が自註で「流れ木」となっているのはご愛敬で、西鶴によくある表記ミス。気にする必要はありません。
「なんやそれ。人間だれかて間違いの一つや二つ、三つ、四つ……」
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ということで自註と最終テキストとの落差を埋める仮定の過程をメモれば――
日和待ちをせし夕暮の磯歩き 〔第1形態=磯歩きくん〕
↓
流れ木に取付く貝を気にかけて 〔第2形態=気にかけくん〕
↓
埋れ木に取付く貝の名を尋ね 〔最終形態=お尋ねさん〕
磯歩きくん即ちお尋ねさんになるの図で、第2形態・最終形態は「磯歩き」くんの抜けと解せます。
たとえば乾裕幸氏はこの付合について――前句の「舟待」を「磯歩き」で応じながらも、「磯歩き」のことばを抜き、その情景の一コマを付け寄せた《心行》である――と述べています。で、この《心行》に関しては、「蕉風などの《心付》に同じい」と乾氏は解説しています(『俳句の現在と古典』平凡社)。
なるほど蕉風も元禄正風体の一つとすれば、納得納得。
「そうや、芭蕉はんだけが元禄風やないで。飛ばし形態かて、抜けかて、移りかて、さほど違わんやろ」
「そうや、芭蕉はんだけが元禄風やないで。飛ばし形態かて、抜けかて、移りかて、さほど違わんやろ」
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では次回は打越へ取って返し「三句目のはなれ」の吟味をします。
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