2015年10月14日水曜日
●水曜日の一句〔飯田冬眞〕関悦史
関悦史
裏表なきせんべいよ母の日よ 飯田冬眞
「裏表なき」の形容は、煎餅だけではなく、もちろん母の愛情の無償性にもかかっている。
ただし煎餅の裏表のなさが母の愛情の暗喩に終わっているならば、一句はひたすら作者の心情を担い、鈍重になるはずだが、この句の場合は、母への思いからさらに一回転して、それを含み込みつつ、煎餅の即物性に一度主眼が返ってくる趣きがあるようだ。
「せんべい」はその素朴な味わい深さや、かつて何度もあってであろう母と煎餅を食べた記憶への導入部をも担いつつ、煎餅自体の物件性を意外に強く立ち上がらせてくるのである。
「せんべいよ」の「よ」を詠嘆と取るなら、その詠嘆は単に煎餅の裏表のなさへと向けられたものではなく、「せんべい」がその裏表のなさという特質によって、不意に母への感謝や愛情に通じる入口となりえたことへの感嘆も含んでいる。
重要なのは「せんべい」の物件性と「母の日」の組み合わせによって、明らかにこの「母」が存命であることが窺われる点だ(没後に意識するのは、母の日よりは命日であろう)。
「せんべい」と「母」が暗喩的に結びつくことは間違いないにせよ、「母の日よ」という結句はその裏表のなさをただちに母へと返し、報いるべく指嗾する。一方的な母への思いなどには終始しない、現存する母の身体性が地続きで呼び込まれていることがこの句の素朴な厚みとなっているのである。
句集に付された鍵和田秞子の序文によると、この句は結社の吟行会で、母の日に草加に行ったときのものだという。多くの参加者が芭蕉の旅の後追いに動くなか、草加への挨拶句として出色のものであったと。そうした成立事情を超えた「母の日」の名句と、この句はなり得ている。
句集『時効』(2015.9 ふらんす堂)所収。
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