2015年10月7日水曜日

●水曜日の一句〔石田郷子〕関悦史


関悦史









蛾を食べて小玉鼠も冬ごもり  石田郷子


「小玉鼠」は妖怪の名でもあるようで、検索するとそちらばかり出てくるのだが、ヤマネの別名らしい。蛾は実際に食べるという。

実在の生物と確定できる「ヤマネ」ではなく、妖怪とも動物ともつかない「小玉鼠」という呼び方(「むじな」のようだ)をしていることで一句は共同幻想の領域をも含み込む。

妖怪としての「小玉鼠」は、山中で人に出会うと体を破裂させ、山からの警告としてマタギたちのおそれの対象となったという(この辺全部ウィキペディア情報なのだが、一応出典は明記されている)。

つまり山の霊威を背負っているわけだが、見た目は小さく可憐な齧歯類である。冬ごもりに入るとなればなおさらだ。「ヤマネ」と呼ぶにせよ「小玉鼠」と呼ぶにせよ、「小玉鼠も冬ごもり」の中七下五は、自然のうちの慕わしく快適な面しか見せておらず、ほとんどぬいぐるみに近い。

「蛾を食べて」といういささかぎょっとする出だしが、それに実在感と生命感を与える。同じ作者の知られた句《春の山たたいてここへ坐れよと》《掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ》の「たたいて」「掌をあてて」と同じような機能を「蛾を食べて」が果たしているのである。

この句は、いま現在「蛾を食べて」いるという形では書かれていない。蛾はすでに胃の腑におさまり、小玉鼠は冬眠に入ろうとしている。見た目はかわいいかもしれないが、冬眠は動物にとってそれなりに過酷な時間だろう。長い眠りの中で、蛾は次第に消化されてゆき、その生命は小玉鼠へと溶融し、移っていく。そうした生命の受け渡しを、小玉鼠に見入ることで語り手も追体験している。

しかし「たた」くにせよ「掌をあて」るにせよ、いずれも強い共感を示しつつ、かえって接触面を際立たせ、語り手が山や木の外側にいることをあきらかにしてしまう動作である。この語り手の強固な等身大性が、生命主義という一般論性への没入の歯止めになっているともいえる。

「蛾を食べ」た「小玉鼠」への寄り添い方もそれに近いといえば近い。しかし語り手の姿や動作が少なくとも表面上は消えている分、小玉鼠の充足感が底光りしてくるようだ。


句集『草の王』(2015.9 ふらんす堂)所収。

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