2015年10月21日水曜日

●水曜日の一句〔矢島渚男〕関悦史


関悦史









花が咲く昆虫館の虫たちに  矢島渚男


自然状態の昆虫たちではない。人工の建物に密集させられた虫たちである。伊藤若冲の群鶏図のような、多くの個体がひしめく過剰さの美が出てくるのはそこからだ。

モチーフにもともと過剰さがあるためか、上五は「花が咲く」という無愛想な言いようだが、ここは言い回しで美化する必要はない。人に愛でられるものとしてではなく、機械のように反復されるものとしての自然の営みがそこから立ち上がるからである。

昆虫というのも生き物の中ではヒトから遠い分、感情移入のしにくいものであり、意思疎通にいたってはほとんど不可能。こちらも機械に近い別次元ぶりである。

つまりこの句は、観察用に集められた虫の群と照らし合わせることで、花からも機械的な相を引き出し、その上であらためて生命感を一句に充満させている。見慣れたものが見慣れぬ相であらわれると「不気味なもの」となるが、花が咲くという営みも、見ようによっては不気味なものではあろう。

その花と虫たちの生命活動は、しかし人工物のガラスやコンクリートで隔てられている。

ここから連想はミシェル・カルージュの奇書『独身者の機械』へ飛ぶ。

これはカフカの『変身』やジャリの『超男性』、デュシャンのガラスを用いた立体作品『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』などから、花嫁に決してたどりつかない独身者たちの空転する欲望という説話論的類型を導き出した、それ自体がシュルレアリスティックな本だが、この句に見られる「花」とガラスで隔てられた「虫たち」とは、ちょうどジャリやデュシャンの作品の、「花嫁」とガラスで隔てられて蠢く「独身者たち」に、そのままかさなりあって見える。昆虫館の外で花が咲いたところで虫たちには関わる術はないのだ。

そうしたシニカルさや不毛さを裏面に忍ばせながらも、一句は有季定型・花鳥諷詠的な生命礼賛の立場を崩さない。「花」と「虫たち」は分離されているどころか、「昆虫館」の壁をものともせずに感応しあっているようだ。

この句において徒労のすえの破滅にいたるのは独身者であるはずの虫たちではなく、昆虫館を作ったヒトなのかもしれない。ヒトが存続しようがしまいが生命は存続する。滅亡後の目から見る生命の美しさと不気味さ、そうしたものがこの句ではいわば見せ消ちにされている。


句集『冬青集』(2015.9 ふらんす堂)所収。

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