「幅広い選」から「開かれた選」へ
福田若之
俳句というジャンルにおける「幅広い選」の称揚:多様性の顕現という現代的状況によって過熱したものである。加えて、寛容さ=道徳的な美徳、という図式(この等式自体は誤りではないだろう)。
だが、選とはそもそも狭くすることに他ならない。選ぶことは、(一面としては)区分し排除することにほかならない。
「幅広い選」も、排除する。「幅広い選」も絶対的な寛容さを持つことはありえない。∴「幅広い選」は、それが見せかけの寛容さを伴うがゆえに、より悪質な排除として働きかねない(それはジャンルを征服し、価値観を均質化する:選のグローバリゼーション)。
選に要求されること=開かれていること≠広いこと。
開かれていること。それも、自らの排除するものへ向けて開かれていること。狭いことと開かれていることとは必ずしも矛盾しない(隠喩:シンガポールは狭い国だが、交易は盛んである)。
選を開くにはどうすればよいか→「開かれた選」の定理はない(三角形の二角を等しくすれば二等辺三角形になる、という具合には、「開かれた選」を実現することはできない)。だが、「開かれた選」は、とにかく、何かしらのかたちで、自らの排除するものへ向けて開かれているはずだ。
2015/8/25
1 件のコメント:
ひとつは選の過程が見えることでしょう。なにが排除されたかがはっきり見えること。これで初めて選に責任が生まれる。俳句は本来それができるジャンルのはずです。
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