関悦史
風鈴のひしめく空を食べあます 小津夜景
一見ふつうの平叙文のようにも見えるなだらかな語調に乗せられて、するすると読み下してしまうものの、内容的には細かな転調が次々に繰り出され、異様なイメージを形作っている句である。
「風鈴のひしめく」がまず尋常ではない。「風鈴の見える」ならば、風鈴の下がった軒先を屋内から見上げた景となり、風鈴は一つ二つだろう。それが「ひしめく」で無数に増やされ、さらには「軒」ではなく「空」に直結されることで、空一面に風鈴が下がっている異様な状態を呈する。
そしてその「空」は、あろうことか「食べ」られてしまうのだ。語り手自身が食べていると思しい。しかしそのままスムーズに食べ尽くされることはなく、「食べあます」とここでもまた転調が繰り返される。
不思議なことに(不思議なことずくめだが)、食べあまされることで、かえってそこに漂う感情は満足感に近いものとなり、「空」の無限の広がりが感じられる。「食べ飽きる」という範列(別の選択肢)から一句が身をそらしているためである。この転調=身のそらしようの連続が、さながら身軽なダンサーによる舞踊のようなしなやかな運動感覚を一句にもたらしているのだが、句集の表題が『フラワーズ・カンフー』であることを思えば、舞踊というよりむしろ拳法的なそれというべきだろうか。
「風鈴のひしめく空」は、風鈴という指示対象を透かし見せながら、それを無限化、さらには無化し、実体をそのまま非実体にしてしまう言葉の連なりである。「霞を食う」という慣用句とは異なり、この句では食べる身体の側にまで無限化=無化が及び、空と同質に近いものに変容している。
ただしこれを一概に一方的な非実体化ととらえてはならない。ここで起こっているのは、むしろ非実体的に見える夏空を、実体(大気、光、色、音、温度、湿度、空間……)の相に引きつけながら、遍在する風鈴という非実体化された実体を介して改めて指示対象(現物としての空)からは剥離させ、身体との交通へと導きいれるという、複雑な襞をたたみ込んだ双方向的な事態なのだ。そこに充ち溢れる開放感と幸福感は、未知のものでありながら、ただちに読者の身心に住み入る。
句集『フラワーズ・カンフー』(2016.10 ふらんす堂)所収。
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