アクシデント
福田若之
今日届いた『俳句四季』11月号、確認していて、おっと、と思う。28頁、下段。インタビューでの僕の発言で、「トークイベント」が
トークイベンとなってしまっている。より正確に説明すると、「トークイ」までで行の底まで届いてしまっているので、「ベン」が一行、その下に十八字分の空白があり、次の行が「ト」から始まっている。ベン、おまえ誰だよ。ベンかよ。
ト
校正稿はしっかり確認したつもりだ。こんな誤植を見落とした僕の目は、いくらなんでも節穴すぎないか。大仏でもくぐりぬけるくらいの大穴なんじゃないか(改行は空白を産むので、そこらへんの誤植とはインパクトが違う)。そこで、もしかしてと思う。校正前は、「トークイベン」までで行の底に届いていたのではないだろうか。
確認してみると、案の定、そうだったことが分かった。そこに、見えない改行が隠れていたというわけだ。この記事は校正の段階で少なくとも数人の目を経ているのだが、僕らは誰一人、見逃したわけではなかった。そいつは見えなかったのだ。これをステルス改行と名付けよう。またの名を、プレデター改行としてもよい。
どれだけ気を付けていても、こういうことは起こるときには起こってしまうものだ。泣いても笑っても、こういうふうにテキストはできてしまったんだから、こういうものとして読むしかないし、読んでいただくしかない。
読むからには面白がりたい。
面白いのは、このステルス改行が、ゲラでは「トークイベン」までで行が変わっていた、という事実をはっきりと記憶しているという点だ。とにかく、何かがそれ以前から書き換えられ、それによってこんな誤植が生じたのである。もちろん、「トークイベン」でちょうど行の底に至る文字列というのは、いくらでも考えられる。それに、発言が雑誌の体裁におさまったときに行の底になにが来るかは、偶然の出来事でしかない。そのことは何も意味しない。かといって、それは無意味でもない。すなわち、意味と無意味との対立の埒外にあるということだ。そういうものをまとめて、いたずらなもの、と呼ぶことにしたい。偶然のもっとも美しいありようは、いたずらなものとしてそのまま過ぎ去ることであるように思う。そうでないと、偶然はおそらく運命というあの胃もたれがするものにたやすく置き換えられてしまうのである。
2016/10/18
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