2016年11月23日水曜日
●水曜日の一句〔千葉信子〕関悦史
関悦史
冬花火この骨壺といふ個室 千葉信子
現在は冬場の花火大会というものも幾つもあるらしいのだが、「冬花火」という季語はおそらくない。通常夏のものである花火が冬に持ってこられると、その光も冷たさに引き締められ、氷の一種のようにも思えてくる。
「この骨壺といふ個室」は、「この」の一語から眼前に骨壺があるとわかるが、コ音とツ音の連なりに引き入れられるようにして、やがて自分が入るものとして外から見ているとも、既に入ってしまった骨の立場から見ているともつかない位置関係を骨壺と語り手の間に組織してしまう。
ことさら感傷的であったり、恐怖にすくんでいたりするような詠みぶりではないとはいえ、一般論的な句ではない。語り手個人と密接している特定の骨壺の話である。「この」がそうした関係を形作っているのだ。
知覚のあり方も少々特異ではある。骨壺を「個室」と見なす意識は、既になかばその内側に安住している。そこには骨となった後の、しかし骨そのものからは離れた身体意識がある。「この骨壺」との位置関係を持ちうる生身の身体が同時に「冬花火」をも感じ取れているのは、そうした身体意識によるのである。
死後の知覚をそのように先取りしていながら、この「個室」の安寧や「冬花火」の輝きは、救済にも、その逆の無救済にもつながらない。物としての骨壺=個室が冬花火と重ね合わされ、やや物寂しい意識の拡張が詠まれるばかりである。
生死の間に広がるこの「冬花火」は、「銀河」や「宇宙」のひとつの擬態に近いものなのではないか。無限の宇宙への拡散は恐怖につながる。その拡散を引きとめるものとして骨壺という個室があるのである。
句集『星籠』(2016.10 深夜叢書社)所収。
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1 件のコメント:
千葉信子の息子です。インターネットのできない母にブログを印刷して見せました。以下が母のコメントです。
「関様が、的確に私の心中をつかんでおられ驚きました。確かに私は将来訪れるであろう死に対して《感傷的であったり、恐怖にすくんでいたり》などしていません。ただ昭和5年生まれの私には《花火》も《命》も同じもののように見えるのです。句集に載せた《「かあさん」と声して花火ひらきたり》も幼い姿の長男がデパートで迷子になって叫ぶ夢を見た後の句でした。目覚めてみれば、それは《花火》のようでした。鑑賞文に心から感謝いたします。 信子」
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