句碑はいま注目の新しいメディア
(ってウソです、ごめんなさい)
さいばら天気
歴史的遺物は別として、いま句碑を建てること。
これを「通俗」と思う人、そう思わない人。この両方がいます。この2種類は、俳人と限定してもいいし、俳人以外に広げてもかまいません。
(「どうでもいい」という大多数は、ひとまず置く)
「通俗」とは、俗物のすること、ダサい、垢抜けない、陳腐、なんでもいいのですが、そういった、まあ否定的な見解です。いまよく使われる語でいえば「痛い」というのも、それに類する。
そう思う、そう思わない。この2種類の考え方は、互いに相容れません。というか、通俗と思う人は、なぜ通俗なのか、なかなか説明が難しい。説明できたとしても、理解・了解は得られそうにない。人それぞれに考え方があると言うしかないのかもしれません。
思う人は、思わない人がいることを知っています。だって、いるからこそ句碑が建つわけですから。ところが、思わない人のなかには、そう思う人がいることに思いが到らない人がいます。「え? 句碑のどこが?」というわけです。
でも、両方の人間がいることを、両方が知っておいたほうがいい。
こんな話をするのは、「俳句甲子園の歴代最優秀句の句碑が完成」というニュースを聞いたからです。
≫俳句甲子園:歴代最優秀句、句碑が完成 本人直筆--椿神社 /愛媛 :毎日jpどんな事情でこうしたことになったのか、詳しいことは知りません。歴代最優秀句の作者、つまり当事者の何人かを存じ上げていますから、事情を訊こうと思えば聞けます。でも、めんどうです。細かいことは置いておいて、大筋の話だけ。
「俳句甲子園」の歴代最優秀句の句碑が、松山市居相2の伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)神社(椿神社)に完成した。98年の第1回から昨年の第12回までの12基で、高さ約1.5メートル。本人直筆の字で刻まれている。神社が無償提供を実行委に申し出て実現した。今後の最優秀句も碑にする予定。/29日にあった除幕式には作者のうち2人が参加。第1回の「秋立ちて加藤登紀子が愛歌う」を詠んだ松山中央高出身、末原ちひろさん(29)は「少し気恥ずかしいが名誉なこと」、第5回の「夕立の一粒源氏物語」を詠んだ松山東高出身、佐藤文香さん(25)は現在は俳人として活躍中で「これ以上の作品をどんどん生み出したい」と話した。【中村敦茂】
このニュースを聞いて驚き、否定的な反応をする人がいるとしたら、それは句碑建立ということ自体に、というより、句碑と、俳句甲子園出身=若者とが、頭のなかで結び付かない、その違和感に対する驚きや否定なのだと思います。
「俳句甲子園の人たちって、みんな馬鹿なんじゃないだろうか。句碑建立という発想。そして、それを何の抵抗もなく受け入れてしまう体質...。」(句碑建立っ?)といった反応にも、その「若者」という要素が含まれていると思います。
私もまた「若い身空で?」と思いました。≫http://twitter.com/10_key/status/19780437795
つまり「生前句碑」ですね。これ、年寄りが、名誉欲か自己顕示欲か何かの欲に駆られて、自分の句碑を建てる、あるいはどこかの結社の主宰が会員からオカネをかき集めて、というなら理解できますが、若い人がとなると、「え?」となるわけです。
(じつは、この手のことって年齢には関係がないのですが、どうしても「句碑=年寄り」というイメージがあります)
(余談ですが、「本人直筆」という部分にもちょっと驚きました)
(ツイッター上、「句碑」で検索すると、いまなら、関連ツイートがいくつかヒットします)
≫こちら http://twitter.com/#search?q=%E5%8F%A5%E7%A2%91
さて、そこで、くだんの句碑は建っちまったわけです。そこに名を連ねる20歳代の俳人たちは(いま俳句を続けている人もいれば、いない人もいるのでしょう)、通俗を行使してしまったことになります(句碑を通俗と思う人にとっては、という話です)。
で、ここから、私の言いたいことをすこしずつ書いていくわけですが、句碑が建っちゃった若者を、例えば非難したり、軽んじたりという気は、じつはあまりないのです。
「通俗は通俗だけど、それも込みだろう」と考えるからです。つまり、そういうことも込みになっちゃう遊び方をしているのだから、通俗もまた引き受けるしかないということです。
句碑が建っちゃうと、表現の可能性がどうの、ポストモダンがどうの、ゼロ年代がどうの、いくらカッコいいことを言っても、「だって句碑(笑)でしょ?」という反応がくっついてしまう。この手の不利を携えていくことになるかもしれない。颯爽とプレゼンするビジネスマンをよく見ると、ズボンからシャツがはみ出ている。そんな感じです。
でもね、カッコいいことばかり言っていてもしかたない。カッコいいことばかり言うのがエラいわけでもない。愛嬌は必要です。
愛嬌とは、しばしば、「自己戯画化」という「余裕」がもたらすものであります。
当事者のなかには、私が親しくさせてもらっている人もいます。機会があれば、「あはは、恥ずかしいね」「なんと垢抜けないことを!」と笑ってからかいはしますが、それだけです。俳人としての、作家としての姿勢なんてものを問い質す気など、さらさらありません。
こんなことになった諸事情について知らないと言いましたが、諸事情があったことは想像がつきます。「誰も好き好んで」ではないでしょう。事情があったことは理解する。だから、仮に、私が彼らの父親で相談を受けたとしたら、「自分で判断しなさい。付き合いもあって、断れないというなら、『たいへん名誉なことです』と返答しなさい。ただし、オカネは鐚一文出すな」と助言します(いま、エアー父親をやって、かなり気分いいです)。
ただ、ここが肝腎なのですが、当事者の皆さんは、この今回の句碑、「通俗ではない」「ダサくない」などと思っちゃいけません。
これは、もうダサいことなんです。おもいっきり通俗だし、垢抜けない。でも、それもまた良し。そういう部分、ありますよ、世の中には、人生には。
当事者のひとりである佐藤文香さんが「俳句甲子園という十字架」という言い方をされています。句碑も、そうかも(石だから、そうとう重い?)。
●
なお、新しく建てる句碑の問題点のひとつに、景観の破壊ということがありますが、今回の句碑はその手の神社の中のようなので、その点は問題なし、です。
句碑建立が通俗かそうでないかといった人々の印象、感受性は時代とともに変化するという見方もありましょう。つまり、いまは通俗と揶揄されても、何十年か経てば、そんなことはなくなり、フツーのこととみなされるのではないか、という見方です。しかし、これは違います。この手のセンスは、百年単位、千年単位でも、そう大きく変化しない。例えば「枕草子」がいまでも愛読されているのは、その証拠です。
付け加えるに、今回の句碑がこうだからと言って、俳句甲子園というイヴェントがどうということではありません。問題を拡散させてはいけない。句碑は句碑、俳句甲子園は俳句甲子園。句碑が嗤われるからといって、俳句甲子園が嗤われているわけではありません。ここははっきり区別しないと。
●
句碑ばかりおろかに群るる寒さかな 久保田万太郎 ≪citation
句碑の句の少し愚かに秋日和 岸本尚毅 ≪citation
●
最後に、為念のまとめ。
通俗、垢抜けないこと、痛いこと。それはそれでしかたなく受け入れるしかないこともある。セ・ラ・ヴィ。たいせつなのは、そうとわかっていること。
え? そうとわからずやっているとしたら? それはもう、「まあ、がんばってください」という感じでしょうか。
●
2 件のコメント:
「句碑」七句。発見。http://umiuma.blog.shinobi.jp/Entry/884/
おお、おもしろい。発見情報、ありがとうございます。
近いうちにリンクにまとめましょうか。
コメントを投稿